NY近郊ゴルフ場ガイド
[其の19]
春になって、衣替えの気分になると、いつも目につくのがピンクの古いセーターだ。もう弾力もなくなってだらしなく垂れ下がるセーターをどうしても捨てられない。このセーターを編んでくれた人を思うからだ。 「これ、着てくれない。もう何着も編んだので、だれでもいいから着てもらいたいの。もしよかったら」 ピンクの糸を使い、全体が凝った縄編みになっている。ふっくらとした提灯袖がかわいらしい。「喜んで着させてもらうわ。でも、なぜそんなにセーターを編めるの?」 法律事務所のパラリーガルとして精力的に仕事をこなし、その他に膨大な量の翻訳のサイドワークをこなし、原稿を書き、ボランティアとしてさまざまな非営利団体の法的手続きを引き受けていた。その上、俳句と短歌のサークルに参加して文才をのぞかせ、さらにスパニッシュダンスを習い、近くのコミュニティガーデンの一画を耕して紫蘇や茗荷を栽培し、収穫した葉をぬれたティッシュで丁寧に包んで、遠くの知人に配って歩くまめさだった。 そんな忙しい暮らしの中で、なぜセーターをたくさん編むことができるのだろうと、素朴に思ったのだ。 「息子の勉強をみているからよ」 当時、まだ高校生だったひとり息子の勉強を、毎日傍らで見守りながら、空いている手で、ひたすら編み物をしているのだという。 「なにしろ出来の悪い子なのよ。どうしようもない」 そうして、さまざまな編み物ができあがった。セーターばかりでなく、ドレス、ブランケット、スーツやパンツまで次々にできあがった。手が早かったし、デザインもセンスがよかった。。 それらを自分で着ていた。スリムな身体によく似合っていた。 彼女の私生活については、彼女自身が語ったことしか知らない。息子がいることは分かったが、その父親については知らない。彼女はひとりで、自由に生活しているようだった。 テキパキと、何事も事務的によくこなした。しかし、潔癖で、いいかげんなことを許さなかった。自分の母校の同窓会の事務局の運営を一手に引き受け、財政面でも切り盛りしていたが、あいまいなことがなにより嫌い。先輩が母校の学生たちのコンサートに太っ腹なところを見せて面倒をみると、経理上の理由で猛反対し、席を立ったまま二度と会に姿を見せなかった。 65歳で引退し、その後はゆったりした暮らしをするのかと思ったが、コロンビア大学で植物学を学び始め、植物の写真を撮るために写真の勉強を始めた。植物研究のために南米に移住する計画だった。 路上で突然倒れ、意識不明のまま亡くなったのは2004年11月、68歳だった。高校時代、陸上選手として大活躍したと、お葬式の時に家族の方からうかがった。 生涯、陸上選手として走りつづけた一人のニューヨーク在住日本人、亡き唐木康江さん。常にトップを走らざるをえないファーストランナー人生のゴールも見事だったといわざるをえない。