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よみタイムVol.145 2010年11月5日発行号

 [其の2]

芸術家同士の愛と結婚生活
ナムジュン・パイクと妻、成子

ナムジュン・パイク回顧録より

パイクが書いた成子へのメッセージ(ナムジュン・パイク回顧録より)

 ナムジュ ン・パイクとその妻の成子と友人たちを乗せたタクシーが、ミドタウンの韓国レストランに着いた。
  パイクによりそっていた成子はさっと車を降り、外から手を差し伸べてパイクの身体を抱き抱えるようにして降ろし、そのままレストランの中まで抱えて入っていく。彼女はかいがいしく、頼もしく、パイクは彼女のなすままにされている。とても機嫌よく、幼児のようにはしゃいでいる。レストランのなじみのウエイトレスに陽気に話しかける。今日は彼の誕生日をささやかに祝うことになっている。
 「も う10年もこうして抱き抱えているので、私、すっかり強くなってしまったわ」
  成子も明るく言う。パイクが脳梗塞で倒れてもう10年も経つのかと、私は思った。
  グッゲンハイム美術館で、2000年に、パイクのビデオアートの大回顧展が催されたときも、あの建物の天井から床まで美しい光の虹をかけた大規模な作品の傍らで、成子の押す車いすに座ったパイクが大勢の観客と挨拶を交わしていた。成子はパイクの脚であり手だった。
 久保田成子自身もアーティストで、もともとは彫刻家だが、パイクの仕事を手伝ううちにビデオアートを自分の作品に取り入れるようになっていっ た。彼女にとってパイクは、夫であるだけでなくインスピレーションを与えてくれる刺激的なアーティストでもあった。彼女の献身的な介護 は、愛情とともに大切な人に対する感謝と尊敬もこもっていた。
  成子とナムジュン・パイクの結婚生活を記録した本が、今年韓国で刊行された。成子と韓国人のジャーナリストの共著によるハングル文字の本 なので、本文は読みこなせないのだが、写真を見るだけで二人の通った60年代から今までの前衛芸術の道筋が見える。成子がはじめてパイク を知ったのは、63年に日本でパイクのコンサートが開かれたときだった。パイクはステージの上でピアノを壊した。その時の新聞記事が、日本にいた成子の下宿の壁に貼付けてあったのを私は覚えている。「この人、すごいわよ。私、ニューヨークへ行く」と、成子はうわごとのように言った。そしてそれを実行し、オノ・ヨーコやパイクもいた前衛芸術家のグループ「フルクサス」の仲間入りをした。
 このグループは、60年代のニューヨークの前衛芸術活動の原点だった。反戦や反体制文化の原動力ともなっていった。
「私、 押し掛け女房なのよ」と、成子は言う。一度結婚したのに、突然、パイクのもとに押し掛けたのだ。パイクは受け入れた。当時のパイクの貧しい暮しはまったく気にならなかった。あのピアノを壊したパイクこそ、彼女の最終目的だった。
  パイクのそばでその仕事を手伝いながら、成子は自分の彫刻の中にビデオアートの要素を加えていった。ビデオの道具を持たずにいることがなくなった。後に、パイクが不自由な身体になった時、成子は感謝をこめて手足となって助けたことだろう。
  この本、パイクの仕事のまとめなのだが、パイクが成子にあてた落書きのようなメッセージがいくつか載っている。
「成子は僕の生命を六年延長し、その六年間、僕は僕の人生の中の最高点を獲得した。よって、ここにこれを証明する。
Nam June Paik
nov. 29, 2000
Shigeko!!
When we were young,
You were the best lover.
Now I am old,
You have become
My best, best mother,
Best Buddha.
Thank you.
2001 Nam June Paik
 一枚の紙の上に千手観音の絵の上に、落書きのように書かれたその文字には、成子なしでは生きて行けない幼児のような甘えと愛情が入り交じって匂いたっている。
  表紙には、成子とパイクのキスシーンが使われている。
  衝撃的だった前衛芸術家の激しい結婚生活。生きることは「アート」であると言っていると思う人もいるだろう。