2020年7月24日号 Vol.378

文:国際ジャーナリスト 内田 忠男
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天皇・皇后両陛下
戦後初のご訪米


歓迎晩餐会へ向かう(左から)香淳皇后、ベティ・フォード夫人、昭和天皇、フォード大統領、ホワイトハウスのクロスホールで(撮影:1975年10月2日) Photo Courtesy of the White House Photographic Office


1975年10月3日付読売社会面トップは華やいだ紙面だった。『陽光キラリ、白亜の「再会」』の大きな横見出しに、握手する昭和天皇とフォード大統領の写真が4段正方形で配され、5段通し組みの前文アタマに印刷された私のクレディットは一倍半のゴシック活字だった。

【ワシントン二日=内田特派員】二人は、しっかり手を握り合った。二日朝(日本時間同日深夜)ホワイトハウス南庭の歓迎式。それは、おおまかで無造作な中にも人をそらさぬ親しみに満ち、快活でスケールの大きな儀式だった。雨のやんだ緑の芝に真っ赤なじゅうたんが鮮やかなコントラストを描く。一八五三年(寛永六年)、米大統領の親書をたずさえた特使ペルリが浦賀に来航して以来、百二十年を超す日米修好の歴史の中で、はじめてホワイトハウスに入った天皇。これを迎えるフォード大統領。背広姿の二人には、昨秋、東京の迎賓館でモーニングに威儀を正したぎこちなさはなく、すでに『百年の知己』のような親しみが満ちていた……

それに続く本文……フォード大統領のスピーチは遠く百二十年をさかのぼって日米関係の歴史をひもとき、史上初めて両陛下を米国にお迎えすることが両国の友好増進にいかに価値あるものであるかを強調した。三十年前の戦争の影は微塵もない。天皇陛下は「独立二百年の歴史的な時に米国訪問の願いがかなえられたことは大きな喜び」とお答えになった……午前十一時十分、突然顔を出した秋の陽光の中……わきあがる大きな拍手に両陛下は高々と手を振ってこたえられた……この日のワシントンは朝から小雨模様のぐずついた空。しかし午前十時ごろには雨も上がった。式場の南庭には、米政府職員とその家族、親日派の米市民、それに在留邦人ら、ホワイトハウスの発表で七千人もの人々が両国の小旗を手に詰めかけた……正面に儀仗隊と五十州の旗……ファンファーレとドラムが高く響き渡って、両陛下のお車……降りられた天皇陛下は大統領と言葉を交わしながら長い握手。いつも緊張気味の陛下が今日はとてもリラックスして見えた。皇后さまはいつもと変わらぬあの笑顔だ。大統領が陛下を労わるように式台へ導く。再び拍手と旗の波。南庭のすぐ前のエリップス庭に置かれた礼砲が白煙を吐く。それに重なるように君が代が始まり、米国国歌……曲が勇壮なマーチに変わった。儀仗隊の閲兵。大柄の大統領が陛下の道順を親切に指し示す……

式典の時刻、日本時間は午前零時を過ぎていた。朝刊最終版の締切時刻ギリギリだから、原稿を書いている時間はないし、見たままの描写をするので予定稿も書けない。前にも紹介した、メモを見ながら頭の中で文章を作る「勧進帳」方式。式典が終わりに近づいたところでホワイトハウス記者室に駆け込み、そこの電話で東京社会部の受け手に直接吹き込んだ。

この訪米はフォード大統領の招待に両陛下が応じる形で実現したもので「国賓」ではなかったが、この描写からも判るように米側の対応は国賓待遇だった。ホワイトハウスで開かれた公式晩餐会もState Banquetと同等で、列席者は私たち取材団も含めてwhite tie、つまり燕尾服の正装を求められた。

米本土への到着はヴァージニア州の古都とされるウイリアムスバーグ。首都ワシントンでの公式行事に臨んだ後は、初代大統領の住まいだったマウントバーノンまで燃えるような紅葉の中を大統領ヨットで川下り。ニューヨークではNFLの公式戦を観戦、イリノイ州の大農場で大豆の収穫を見学、さらにカリフォルニアではディズニーランドでミッキーマウスの出迎えを受けた。旅の最後はハワイでゆったりした日を過ごしたが、この間、スミソニアン博物館やサンディエゴのスクリプス海洋研究所などで、天皇の研究テーマである海洋生物について標本を見ながら専門家と意見を交換する場面もあった。

東京から随行してきた同期の親しい記者と手分けしての取材・送稿で、全行程を無事伝え終えることができたが、私は、終戦から30年を経た今も、この人がこうしてアメリカにいることに違和感のようなものを感じていた。当時の天皇に個人的な反感を抱いていた訳ではむろんないのだが、あの大戦争を統帥権者として指揮した人物が、これほど長く天皇の地位にいることの不条理が拭えなかったからだ。でも、その感情を文章にすることはできなかった。

天皇個人として、戦争を望んでいなかったことは、多くの書物が語っている通りだとしても、二百万を超す将兵の多くが「天皇陛下万歳」と叫んで戦陣に散り、百万近い市民が命を落とした苛酷な結果を思えば、それなりの責任の取り方はあって然るべきだとずっと考え続けてきた。敗戦後初の新年に「人間宣言」をした後にでも、「退位」という形で自らけじめをつけられるべきではなかったか。皇太子が幼かった、というのは理由にならない。秩父、三笠、高松と成人された弟宮が3人もいたのだから、そのうちの一人が摂政の任につけば良かった。

背後にマッカーサー将軍の意図が働いたとは言え、戦争責任が曖昧にされたことが、戦後日本の様々な局面で公的責任の所在が疎かにされる因になった、という思いが消えないのである。(つづく)


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