ニューヨーク・イベント情報 

文:国際ジャーナリスト 内田 忠男

[Detail, 番外編]
拡大するウイルス感染と
ブロック化する世界


私自身の軌跡を振り返る物語を中断しなければならない事態が起きている。Chinese Virusが日本を、世界を、とりわけアメリカを痛撃しているからだ。あまりの深刻さに「終末」を口にする人もいる。(続きを読む)

[Detail, 7]
「ロービング」で見えた
欧州の機動性と透明性


ストックホルムの国連人間環境会議が終わっても、直ちに帰国の途についたわけではなかった。前回書いたように、この年、読売社会部は国連会議のスローガンであった『かけがえのない地球』を(続きを読む)

[Detail, 6]
捕鯨で袋叩きに…ストックホルム会議


札幌五輪から帰京すると、1972年はさらなる大仕事が待っていた。この年、6月に国連が環境問題に関する大規模な国際会議をスウェーデンのストックホルムで開くことになっており、これに派遣されることが決まったのだ。(続きを読む)

[Detail, 5]
「平和」競った札幌五輪


1971年と72年は札幌で開かれた冬季オリンピックに関わった。オリンピックは72年だ、と言われるだろうが、前年の71年にはプレオリンピックが開かれたのだ。五輪取材は運動部主体だが、東京五輪、大阪万博に次いで新しい日本を世界に発信する3つ目の国家的行事だったから(続きを読む)

[Detail, 4]
復興遂げた日本の光と影


ちょうど半世紀前になる1970年。この年は、大阪千里丘陵で日本初の万国博が開かれた。東京発祥の読売新聞も1952年に大阪読売新聞を発刊して、大阪発祥の朝日、毎日を追撃し、遜色のない部数にまで伸ばしていたが、東京本社にいる私たちからすると、「大阪は後発」の思いが強く、(続きを読む)

[Detail, 3]
社会部国際班で手掛けた
世紀の大事業「月面着陸」報道


1960年代、私が在籍した当時の読売新聞社内では「社会部帝国主義」という言葉が囁かれ、社会部員の多くが肩で風を切るように闊歩。政治・経済・外報など他の取材部を圧倒する迫力があった。(続きを読む)

[Detail, 2]
インクに塗れた日々、サツまわり、
「英語屋」と駆り出された密着取材


1964年のオリンピック東京大会が終わって程なく、私の運動部での勤務が終わり、地方版紙面の割付作業をする「整理」という仕事が与えられた。今でこそ新聞制作はコンピューターを駆使した机上作業で進められるが、当時は活版印刷の時代。(続きを読む)

[Detail, 1]
私のジャーナリスト人生は
「不幸にして…」から始まった。


2020年がやってくる。私にとって意味があるのは、新聞社入社3年目で幅広い取材に携わったオリンピック東京大会が再び開催されること、そして、国際報道と本格的に関わった1970年から半世紀を迎えることである。(続きを読む)


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