ニューヨーク・イベント情報 

文:国際ジャーナリスト 内田 忠男

[Detail, 15]
大赤字で開催
モントリオール五輪


昭和天皇のアメリカの旅をハワイで見送って、一月近く留守にしたロサンゼルスに戻っても、パティ・ハーストや大統領暗殺未遂事件の法廷手続きが始まるなど、気の許せない日々が続く。「ここは暇だから命の洗濯でもしておきなよ」――前任者の言葉がウソに思えた。(続きを読む)

[Detail, 14]
天皇・皇后両陛下
戦後初のご訪米


1975年10月3日付読売社会面トップは華やいだ紙面だった。『陽光キラリ、白亜の「再会」』の大きな横見出しに、握手する昭和天皇とフォード大統領の写真が4段正方形で配され、5段通し組みの前文アタマに印刷された私のクレディットは一倍半のゴシック活字だった。(続きを読む)

[Detail, 13]
病めるアメリカ
裏目に出た「自由と平等」


ロサンゼルス特派員としてのデビュー仕事を終えた後も、あわただしかった。パトリシア・ハースト逮捕の翌々日にはサンフランシスコにいた。これには二つ目的があり、一つは、この年9月30日から10月14日まで予定されていた昭和天皇・香淳皇后の訪米を(続きを読む)

[Detail, 12]
ロス赴任直後に大事件
P・ハースト逮捕を速報


帰国する前任者一家を送り出して4日目くらいだったろうか、「どうせ暇だろう」とタカを括っていたところに、24時間ほぼ間断なくニュースを吐き出しているAP通信のティッカーが「至急報」を示す信号を鳴らした。(続きを読む)

[Detail, 11]
社会部、外報部を経て
ロサンゼルス特派員へ
日系企業進出が本格化


驚きの記事が載ったのは1974年10月9日発売の月刊文藝春秋だった。立花隆の「田中角栄研究―その金脈と人脈」と、児玉隆也が書いた「淋しき越山会の女王」の2本である。(続きを読む)

[Detail, 10]
日本赤軍による騒乱


1960年代から70年代にかけては、過激派とされた日本の学生がさまざまな騒乱事件を起こした時代でもあった。新左翼と呼ばれた集団がいくつも生まれ、共産党や社会党などの既成左翼とは明確な一線を画し、マルクス主義を標榜しながら反帝国主義・反共産党・反スターリニズムを掲げる(続きを読む)

[Detail, 9]
大統領の犯罪と功績


札幌五輪から欧州出張など、超多忙のうちに暮れた1972年。その反動か、翌年から2年ほどは、記憶に残るような仕事をしなかった。その代わり、と言っては何だが、73年夏に某経済人のお供でアメリカ西海岸を旅行した。勝手に職場放棄をする訳には行かないから(続きを読む)

[Detail, 8]
72年、浮き彫りになった
環境問題とふたつの悲劇


欧州から帰り、旅行中に集めた膨大な資料を整理しながら、特集面の記事作成に忙殺されたが、8月末になるとミュンヘン五輪が始まる。西独旅行中に五輪施設の下見もしていたことから「土地勘があるだろう」と(続きを読む)

[Detail, 番外編]
拡大するウイルス感染と
ブロック化する世界


私自身の軌跡を振り返る物語を中断しなければならない事態が起きている。Chinese Virusが日本を、世界を、とりわけアメリカを痛撃しているからだ。あまりの深刻さに「終末」を口にする人もいる。(続きを読む)

[Detail, 7]
「ロービング」で見えた
欧州の機動性と透明性


ストックホルムの国連人間環境会議が終わっても、直ちに帰国の途についたわけではなかった。前回書いたように、この年、読売社会部は国連会議のスローガンであった『かけがえのない地球』を(続きを読む)

[Detail, 6]
捕鯨で袋叩きに…ストックホルム会議


札幌五輪から帰京すると、1972年はさらなる大仕事が待っていた。この年、6月に国連が環境問題に関する大規模な国際会議をスウェーデンのストックホルムで開くことになっており、これに派遣されることが決まったのだ。(続きを読む)

[Detail, 5]
「平和」競った札幌五輪


1971年と72年は札幌で開かれた冬季オリンピックに関わった。オリンピックは72年だ、と言われるだろうが、前年の71年にはプレオリンピックが開かれたのだ。五輪取材は運動部主体だが、東京五輪、大阪万博に次いで新しい日本を世界に発信する3つ目の国家的行事だったから(続きを読む)

[Detail, 4]
復興遂げた日本の光と影


ちょうど半世紀前になる1970年。この年は、大阪千里丘陵で日本初の万国博が開かれた。東京発祥の読売新聞も1952年に大阪読売新聞を発刊して、大阪発祥の朝日、毎日を追撃し、遜色のない部数にまで伸ばしていたが、東京本社にいる私たちからすると、「大阪は後発」の思いが強く、(続きを読む)

[Detail, 3]
社会部国際班で手掛けた
世紀の大事業「月面着陸」報道


1960年代、私が在籍した当時の読売新聞社内では「社会部帝国主義」という言葉が囁かれ、社会部員の多くが肩で風を切るように闊歩。政治・経済・外報など他の取材部を圧倒する迫力があった。(続きを読む)

[Detail, 2]
インクに塗れた日々、サツまわり、
「英語屋」と駆り出された密着取材


1964年のオリンピック東京大会が終わって程なく、私の運動部での勤務が終わり、地方版紙面の割付作業をする「整理」という仕事が与えられた。今でこそ新聞制作はコンピューターを駆使した机上作業で進められるが、当時は活版印刷の時代。(続きを読む)

[Detail, 1]
私のジャーナリスト人生は
「不幸にして…」から始まった。


2020年がやってくる。私にとって意味があるのは、新聞社入社3年目で幅広い取材に携わったオリンピック東京大会が再び開催されること、そして、国際報道と本格的に関わった1970年から半世紀を迎えることである。(続きを読む)


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