ニューヨーク・イベント情報 

文:国際ジャーナリスト 内田 忠男

[Detail, 62]
激しく動く世界
「湾岸戦争」を特番で速報


報道特別番組の話を続ける。何度も書いてきたように1989年は、ゴルバチョフ・ソ連共産党書記長のペレストロイカと新思考外交に触発された東欧諸国で、社会主義統治が雪崩を打って崩壊する「89年革命」が起きたばかりでなく、(続きを読む)

[Detail, 61]
「報道特別番組」で伝えた
昭和の終わりと空前の大疑獄


東京のスタジオで番組を持っていたのは、1988年10月から93年3月までの4年半だった。この間、定時番組の他に「報道特別番組」のアンカーも務めた。世の中には、むしろこの面で私の存在が知られてもいた。(続きを読む)

[Detail, 60]
グローバル化の起点となった
全欧安全保障協力会議


1990年の海外取材は11月だった。19〜21日パリで開かれた国際会議を取材するためだった。この会議はCSCE=Conference on Security and Co-operation in Europe、日本語では「全欧安保協力会議」と呼ばれる首脳会合だった。(続きを読む)

[Detail, 59]
ヒルズ女史が指摘した
日本市場の構造と政府規制


海外出張の機会は、89年暮れにも訪れた。空前の円高を招いた85年のプラザ合意後も、日本の対米貿易黒字は減るどころか増え続けていた。(続きを読む)

[Detail, 58]
米大統領就任式、G7、要人単独インタビューなど
海外出張から伝えた世界


東京で月曜から金曜まで帯の番組をやらされていれば、旅行の自由は制約される。国内でもそうだから海外はもっと難しかろうと考えていたが、実際はそうでもなかった。休み以外にも、結構外国に出ていたのである。(続きを読む)

[Detail, 57]
番組で不合理価格を追及(2)
ネコババされても「お上」を疑わない日本人


前回書いた電話料金不正請求問題(取り過ぎ)に限らず、NTTに対しては強い不満と懐疑を持っていた。家庭画報に連載していた『あなたのための時事解説』には、以下のような記述もある。長くなるが、抜粋を続けよう。(続きを読む)

[Detail, 56]
番組で不合理価格を追及(1)
牛肉は米の18倍以上、NTT電話料金不正請求


不合理価格追及キャンペーンでは、牛肉も取り上げた。朝スタジオに行ってみると、成牛が1頭いるのに驚いた。ただ、番組では肉牛の値段を問題にしたのに、ヨダレを垂らしてワラを食んでいたのは乳牛が主のホルスタイン種だったのがご愛嬌。(続きを読む)

[Detail, 55]
不合理なコメ行政に風穴
涌井徹さんの「農業維新」


『内田忠男モーニングショー』をどのような番組にするか、戸惑いが続いた。私の起用を主導した伊駒政実プロデューサーは「視聴者は、ニューヨークと東京、内田さんの二都物語を期待していると思いますよ」という。(続きを読む)

[Detail, 54]
冠番組初日に華麗なゲスト
五輪の覇者、ジョイナー出演


『内田忠男モーニングショー』が始まった1988年の10月10日は月曜日だった。64年に開かれた東京五輪の開会式が開かれた日で、以後「体育の日」という祝日になっていた。(続きを読む)

[Detail, 53]
アメリカ生活13年に終止符
テレ朝で冠番組スタート


1988年に戻ろう。ニュースステーションが放送開始から3年目を迎え、初めのうちは1桁を低迷していた視聴率も2桁が当たり前、時には20%に乗ることもあった。(続きを読む)

[Detail, 52]
在職期間は歴代最長
ウソで塗り固めた安倍政権


前回、私が近しく会ったことのある総理大臣経験者の中で、小泉純一郎氏を高く評価しながら、安倍晋三氏を後継に指名したことが「唯一の失策」だったと書いたが、それが何故か、説明しておきたいと思う。(続きを読む)

[Detail, 51]
田中、中曽根は「スケール大」
「総理の器」は橋本、小泉


田中角栄、三木武夫、大平正芳、中曽根康弘、竹下登、海部俊樹、宮澤喜一、細川護煕、羽田孜、村山喜市、橋本龍太郎、小渕恵三、森喜朗、小泉純一郎、安倍晋三…(続きを読む)

[番外編]
プーチンのウクライナ侵攻(2)
許されぬ戦争犯罪


毎日、ウクライナから届く凄惨で悲しい映像に心潰れる思いだ。政治家たちは口ではウクライナ支援を言うが、実効の上がる対策を打てていない。(続きを読む)

[番外編]
プーチンのウクライナ侵攻(1)
人知超えた暴挙蛮行


なんたる暴挙――21世紀の現代にあり得ない、あってはならないことが起きた。ロシアによるウクライナへの軍事侵攻である。(続きを読む)

[Detail, 50]
各国首脳との信頼関係で
中心的役割果たした小泉首相


サミットと通称される主要国首脳会議の話を続ける。外国で開かれるサミット取材の最後は2003年6月のフランス・エビアンでの会合だった。飲料水で知られる、あのエビアンだ。(続きを読む)

[Detail, 49]
サミット取材22回
印象に残るヴェネツィアとナポリ


日本の首脳外交についても触れておかなければならない。日本の首相にとっての大きな外交舞台は日本のメディアが「サミット」と通称する「G7=主要国首脳会議」だ。(続きを読む)

[Detail, 48]
ゴルバチョフの包容力
素晴らしい大衆政治家


レーガン=ゴルバチョフの米ソ首脳会談の話を続けよう。1986年10月11日、12日の2回目は、北大西洋に浮かぶアイスランドの首都レイキャヴィクが会場になった。(続きを読む)

[Detail, 47]
東西対立に終止符打った
レーガンとゴルバチョフ


ニュースステーションが始まって1ヵ月ほど経ったころ、アメリカとソ連の首脳会談が開かれることが具体化した。開催地はスイスのジュネーブだという。(続きを読む)

[Detail, 46]
アメリカ進出企業を全面サポート
日米の懸け橋、村瀬二郎氏の偉業


話は少し前後するが、1985年秋、ニュースステーションが始まるのに先立って、私は、読売新聞退社以来勤めてきたビジネスニュースの副社長・編集主幹の職を辞することにした。(続きを読む)

[Detail, 45]
「ニュースステーション」第一回放送は
プラハからの中継


私がテレビ朝日と関係を結ぶことになった『Big News Show いま世界は』という番組は、1983年から『TVスクープ』と名を替えて、金曜夜の同じ時間帯で放送を続けた。(続きを読む)

[Detail, 44]
巨大なマイナス効果の根源
「プラザ合意」


1985年9月22日に成立した「プラザ合意」について述べたい。先進5ヵ国(G5=日・米・西独・英・仏)の蔵相・中央銀行総裁がニューヨークのプラザホテルで緊急会合して、(続きを読む)

[Detail, 43]
デイヴィッド・ロックフェラー氏と単独会見
挑戦こそがイノベーション


1984年秋、ロックフェラー財閥の3代目当主、デイヴィッド・ロックフェラー氏と単独会見した。これはテレビの仕事とは関係なく、(続きを読む)

[Detail, 42]
日本の「常識」を海外で実践
高品質・高生産性を確立


私が国際ジャーナリズムに足を踏み入れてからの半世紀余り、日米関係では貿易摩擦がほとんど恒常的にぶら下がっていた。(続きを読む)

[Detail, 41]
CNNの影響力と
伝説のアンカー、B・ショウ


ネット社会とされる現在でも多くのニューズ専門チャンネルの電波が飛びかっているが、その嚆矢となったのがアメリカのCNNだった。(続きを読む)

[Detail, 40]
名古屋誘致、不当行為に惨敗
IOCの「ぼったくり」体質


1981年10月、ほぼ1年ぶりの一時帰国をテレビ番組に願い出ると、その前に西独のバーデンバーデンに寄って欲しい、とのこと。(続きを読む)

[Detail, 39]
「自由を獲得するため」
英雄ヴァウェンサの覚悟


ポーランドへの旅はまだ終わらなかった。自主管理労組「連帯」の自由化運動に揺れる同国を取材しながら、主人公であるレフ・ヴァウェンサ議長にはまだ会えていない。(続きを読む)

[Detail, 38]
過酷な体験が植え付けた
国家への不信感


1981年5月15日、ワルシャワからの生放送を終えると、私たちは自主管理労組「連帯」の反政府運動に揺れるポーランド国内の旅に出た。(続きを読む)

[Detail, 37]
冷戦下のポーランドで
東西構造崩壊の予兆


1981年4月、さしもの酷寒もようやく去って初夏を思わせる日和が始まった頃、ニューヨーク駐在の番組プロデューサーから「ポーランドに行って下さい」と言われた。(続きを読む)

[Detail, 36]
キッシンジャー氏と
日本初のテレビ会見


私が関わることになったテレビ朝日の番組は、前回述べた仕掛けの壮大さだけでない、凄さがあった。1981年が明けると、アメリカ政界の超大物ヘンリー・キッシンジャー博士の生出演を企画し、発足したばかりの共和党レーガン政権の外交政策の見通しと、(続きを読む)

[Detail, 35]
ロスから荒廃したNYへ
第一声は五番街の歩道から


1980年9月、まる5年暮らしたロサンゼルスからニューヨークに移った。テレビ朝日と契約した番組出演のためではあったが、契約は1年ごとの更改。「クビになれば、またLAに帰る」つもりで、住まいはマンハッタンの東93丁目の角に完成したばかりの賃貸アパートの1寝室を借りた。(続きを読む)

[Detail, 34]
東京とニューヨークつなぐ
「とんでもない」番組に出演要請


1980年初夏、電通ロサンゼルス駐在員の訪問を受けた。「二人だけでお話ができますか」と言うので、近くのホテルのラウンジに行く。「お忙しいと思うので単刀直入にお話しします。この場でご回答が頂ければ有り難いのですが、(続きを読む)

[Detail, 33]
第二の人生に不安なし
「現地除隊の企業戦士」


読売新聞記者として16年弱、入社した1962年、日本は国富の大半を失った敗戦の惨禍からの復興をほぼ終えて、世界を刮目させる高度経済成長の庭先にいた。社会には活気が満ち、人々の目には未来を確信する輝きが宿っていた。(続きを読む)

[Detail, 32]
「辞めたか、おめでとう」
フッと蘇る本田氏の一言一句


ついにその日がやってきた。1978年2月7日朝、私は前夜帰国して宿泊した帝国ホテルから大手町の読売新聞本社に向かった。16年前、当時銀座にあった読売の入社式に出た時も、帝国ホテルからの出社だった。(続きを読む)

[Detail, 31]
偏見と差別が導いた誤り
サッコ&バンゼッティ事件


日付は前後するが、1977年8月23日付朝刊解説面に、『米のサッコ・バンゼッティ事件 処刑50年目の無罪宣告 偏見、差別の裁き認める 今もなお跡たたぬ冤罪立証への追跡』という見出しで8段組の大型記事を出稿した。(続きを読む)

[Detail, 30]
現地の心と価値観を共有
米国で成功した住宅開発


先にも述べたように、ロサンゼルスではアメリカに進出した日本企業の行動にも注目した。かつての繊維や鉄鋼、この当時の家電や自動車のように日本製品を洪水のように売り浴びせていれば、やがては反感を買う。(続きを読む)

[Detail, 29]
スペース・シャトル
宇宙有人飛行の幕開け


1976年7月から9月にかけ火星表面に相次いで軟着陸したバイキング1、2号の生物探査が翌年5月に一段落した。6月1日付夕刊1面に『火星、生物はやっぱりいなかった』という4段の凸版見出しが載る。(続きを読む)

[Detail, 28]
ロス五輪成功の立役者
価値を最大限に商品化


オリンピックも私の読売時代には切ってもきれないテーマの一つだった。64年の東京に始まり、72年冬の札幌、76年のモントリオールを自ら取材し、72年のミュンヘンは原稿の受け手として東京本社で紙面制作に当たった。(続きを読む)

[Detail, 27]
米国に乗り込んだ
スポーツ選手たち


読売新聞のロサンゼルス在勤中はスポーツの記事もよく書いた。ゴルフと野球、セーリングが多かったが、全米水泳を取材したこともあった。(続きを読む)

[Detail, 26]
米国市場を席巻した
「小さな巨人」たち


1970年代後半のロサンゼルス地域が、多くの日本企業にとって米国市場獲得の先兵になっていたことは前回触れた。優秀な人材が数多く投入され、後に日本本社のトップに上り詰めた人も少なくなかった。(続きを読む)

[Detail, 25]
大空の死闘から33年
いま抱き合う日米の荒鷲


1977年2月のある夜、耳寄りな話が飛び込んできた。この当時のロサンゼルス地域は、日本企業が競い合うように現地法人の本部を置いて、米国市場開拓の橋頭堡としていた。(続きを読む)

[Detail, 24]
集団蒸発事件「UFO教」
信者第一号に接触取材


1976年は大統領選挙の年でもあった。予備選挙段階では、カリフォルニア州の若き知事だったジェリー・ブラウンが民主党の指名を求めて名乗りを挙げ、その選挙運動をいくつか取材した。(続きを読む)

[Detail, 23]
活力満ちる米政治
上院に日系人議員3人


1976年は大統領選挙の年でもあった。予備選挙段階では、カリフォルニア州の若き知事だったジェリー・ブラウンが民主党の指名を求めて名乗りを挙げ、その選挙運動をいくつか取材した。(続きを読む)

[Detail, 22]
火星探査は生物発見ならず
ロッキードは「ネズミ一匹」


開会式から1週間後に現地入りし慌ただしい取材に明け暮れた挙句、「田中角栄逮捕」の報で閉会式にも出られなかったモントリオール五輪からロサンゼルスに戻ると、すぐにロッキード事件嘱託尋問の関連筋と接触。(続きを読む)

[Detail, 21]
モントリオール五輪
表舞台から裏舞台まで


ロッキード事件の嘱託尋問には一応の区切りがついたので、23日にようやくオリンピックが開かれているモントリオールに向かった。17日の開会式から既に1週間、競技たけなわだった。(続きを読む)

[Detail, 20]
火星軟着陸に成功
乾いた湖底の風景


1976年はモントリオール五輪を取材することになっていた。開会式が7月17日に開かれるので、本来なら10日前後には現地入りする必要があったが、ロッキード事件の嘱託尋問が長引いただけでなく、他にもロサンゼルスを離れられない事情があった。(続きを読む)

[Detail, 19]
ロッキード事件が新局面
前代未聞の嘱託尋問


ロッキード事件の嘱託尋問が行われたのは、ロサンゼルス官庁街に建つ連邦司法ビル13階に特設された一室だった。むろん報道陣の入室は許されない。その室内の様子を当時私が書いた記事は次のように描写している。(続きを読む)

[Detail, 18]
ロッキード事件が新局面
前代未聞の嘱託尋問


ロッキード事件は、1976年5月に入って慌ただしい局面を迎える。捜査を開始した東京地検特捜部は、外交ルートを通じ、首相だった田中角栄氏に5億円が密かに渡されたという衝撃的内容を含む連邦上院チャーチ委員会での証言記録など、(続きを読む)

[Detail, 17]
アメリカ社会の実態伝え
ロッキード事件、アカデミー賞、東京ローズ


ロッキード事件が降って沸いて、ロサンゼルスに帰った私は早速、バーバンクのロ社本社に出かけ、責任ある幹部との面会を求めたが、当然のことながら玄関払い。電話ではラチが開かないのが目に見えているから懲りずに日参しても、(続きを読む)

[Detail, 16]
目の当たりにしたグアテマラ大地震
謎に包まれたロッキード事件


当時、米大陸にあった読売新聞の支局はワシントン、ニューヨーク、ロサンゼルスの北米3都市だけだった。一番南にあったロサンゼルスは中南米も守備範囲に入る。そこで1976年の正月休みはメキシコに出かけることにした。(続きを読む)

[Detail, 15]
大赤字で開催
モントリオール五輪


昭和天皇のアメリカの旅をハワイで見送って、一月近く留守にしたロサンゼルスに戻っても、パティ・ハーストや大統領暗殺未遂事件の法廷手続きが始まるなど、気の許せない日々が続く。「ここは暇だから命の洗濯でもしておきなよ」――前任者の言葉がウソに思えた。(続きを読む)

[Detail, 14]
天皇・皇后両陛下
戦後初のご訪米


1975年10月3日付読売社会面トップは華やいだ紙面だった。『陽光キラリ、白亜の「再会」』の大きな横見出しに、握手する昭和天皇とフォード大統領の写真が4段正方形で配され、5段通し組みの前文アタマに印刷された私のクレディットは一倍半のゴシック活字だった。(続きを読む)

[Detail, 13]
病めるアメリカ
裏目に出た「自由と平等」


ロサンゼルス特派員としてのデビュー仕事を終えた後も、あわただしかった。パトリシア・ハースト逮捕の翌々日にはサンフランシスコにいた。これには二つ目的があり、一つは、この年9月30日から10月14日まで予定されていた昭和天皇・香淳皇后の訪米を(続きを読む)

[Detail, 12]
ロス赴任直後に大事件
P・ハースト逮捕を速報


帰国する前任者一家を送り出して4日目くらいだったろうか、「どうせ暇だろう」とタカを括っていたところに、24時間ほぼ間断なくニュースを吐き出しているAP通信のティッカーが「至急報」を示す信号を鳴らした。(続きを読む)

[Detail, 11]
社会部、外報部を経て
ロサンゼルス特派員へ
日系企業進出が本格化


驚きの記事が載ったのは1974年10月9日発売の月刊文藝春秋だった。立花隆の「田中角栄研究―その金脈と人脈」と、児玉隆也が書いた「淋しき越山会の女王」の2本である。(続きを読む)

[Detail, 10]
日本赤軍による騒乱


1960年代から70年代にかけては、過激派とされた日本の学生がさまざまな騒乱事件を起こした時代でもあった。新左翼と呼ばれた集団がいくつも生まれ、共産党や社会党などの既成左翼とは明確な一線を画し、マルクス主義を標榜しながら反帝国主義・反共産党・反スターリニズムを掲げる(続きを読む)

[Detail, 9]
大統領の犯罪と功績


札幌五輪から欧州出張など、超多忙のうちに暮れた1972年。その反動か、翌年から2年ほどは、記憶に残るような仕事をしなかった。その代わり、と言っては何だが、73年夏に某経済人のお供でアメリカ西海岸を旅行した。勝手に職場放棄をする訳には行かないから(続きを読む)

[Detail, 8]
72年、浮き彫りになった
環境問題とふたつの悲劇


欧州から帰り、旅行中に集めた膨大な資料を整理しながら、特集面の記事作成に忙殺されたが、8月末になるとミュンヘン五輪が始まる。西独旅行中に五輪施設の下見もしていたことから「土地勘があるだろう」と(続きを読む)

[Detail, 番外編]
拡大するウイルス感染と
ブロック化する世界


私自身の軌跡を振り返る物語を中断しなければならない事態が起きている。Chinese Virusが日本を、世界を、とりわけアメリカを痛撃しているからだ。あまりの深刻さに「終末」を口にする人もいる。(続きを読む)

[Detail, 7]
「ロービング」で見えた
欧州の機動性と透明性


ストックホルムの国連人間環境会議が終わっても、直ちに帰国の途についたわけではなかった。前回書いたように、この年、読売社会部は国連会議のスローガンであった『かけがえのない地球』を(続きを読む)

[Detail, 6]
捕鯨で袋叩きに…ストックホルム会議


札幌五輪から帰京すると、1972年はさらなる大仕事が待っていた。この年、6月に国連が環境問題に関する大規模な国際会議をスウェーデンのストックホルムで開くことになっており、これに派遣されることが決まったのだ。(続きを読む)

[Detail, 5]
「平和」競った札幌五輪


1971年と72年は札幌で開かれた冬季オリンピックに関わった。オリンピックは72年だ、と言われるだろうが、前年の71年にはプレオリンピックが開かれたのだ。五輪取材は運動部主体だが、東京五輪、大阪万博に次いで新しい日本を世界に発信する3つ目の国家的行事だったから(続きを読む)

[Detail, 4]
復興遂げた日本の光と影


ちょうど半世紀前になる1970年。この年は、大阪千里丘陵で日本初の万国博が開かれた。東京発祥の読売新聞も1952年に大阪読売新聞を発刊して、大阪発祥の朝日、毎日を追撃し、遜色のない部数にまで伸ばしていたが、東京本社にいる私たちからすると、「大阪は後発」の思いが強く、(続きを読む)

[Detail, 3]
社会部国際班で手掛けた
世紀の大事業「月面着陸」報道


1960年代、私が在籍した当時の読売新聞社内では「社会部帝国主義」という言葉が囁かれ、社会部員の多くが肩で風を切るように闊歩。政治・経済・外報など他の取材部を圧倒する迫力があった。(続きを読む)

[Detail, 2]
インクに塗れた日々、サツまわり、
「英語屋」と駆り出された密着取材


1964年のオリンピック東京大会が終わって程なく、私の運動部での勤務が終わり、地方版紙面の割付作業をする「整理」という仕事が与えられた。今でこそ新聞制作はコンピューターを駆使した机上作業で進められるが、当時は活版印刷の時代。(続きを読む)

[Detail, 1]
私のジャーナリスト人生は
「不幸にして…」から始まった。


2020年がやってくる。私にとって意味があるのは、新聞社入社3年目で幅広い取材に携わったオリンピック東京大会が再び開催されること、そして、国際報道と本格的に関わった1970年から半世紀を迎えることである。(続きを読む)


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