「小泉訪朝」水際立った手腕
仕掛け人は外交官・田中均
2002年には、思いがけない出来事があった。
9月17日、首相の小泉純一郎が国交のない北朝鮮の首都・平壌(ピョンヤン)を訪れ、国防委員長の肩書きながら、事実上の独裁者である金正日(キム・ジョンイル)と会ったのである。むろん会っただけではない。それまで永い間、禁忌とされてきた北朝鮮による日本人の拉致問題について、金正日が初めて一部を認め謝罪した。拉致問題に加え、日本統治時代の清算、国交正常化交渉の開始などを盛り込んだ共同宣言=「日朝平壌宣言」に合意・調印した。

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記録によると、会談終了後の記者会見で小泉は、「私からは特に2つのことを強調した。第一に日本は正常化交渉に真剣に取り組む用意があるが、それを進めるには拉致問題や安全保障など諸懸案に北側が誠意を持って取り組む必要があること、第二に、北東アジアの平和と安定のために、米国および韓国をはじめとする国際社会との対話を促進すべきであると。特に、拉致や安全保障の問題については先方の決断を強く促した」と述べ、拉致について、「金正日委員長は、過去に北の関係者が行ったことを率直に認め、遺憾なことでありお詫びすると述べた」と語った。
核兵器の開発疑惑についても、小泉は「国際社会の懸念事項だ」と迫り、「金正日は関連する全ての国際的合意を遵守することを明確にした」と述べ、翌年から始まる6者協議(日米中韓露の5ヵ国と北朝鮮)の伏線を作っていた。
そして10月15日には、拉致されていた地村保志・富貴惠、蓮池薫・祐木子、曽我ひとみの5人が日本政府チャーター機で帰国、家族との再会を果たしたのであった。この断固たる交渉力と、それがもたらした結果については、歴代総理の誰もなし得なかったことである。
しかも、小泉の訪朝はこれだけでは済まなかった。04年5月22日に2度目の訪朝をし、金正日と再度会談して、拉致と核・ミサイル問題について、先の平壌宣言が基礎にあることを確認させた。会談後の記者会見で小泉は、「先の日朝平壌宣言を誠実に履行することが極めて重要で、このことを金正日に再確認すること、大局的な話がしたいということで敢えて再訪朝した。率直に会談を行い、お互い平壌宣言が日朝関係の基礎であることを再確認した」と語り、拉致問題について、「先に帰国した人たちの家族5名が、本日、私たちと帰国する運びになった」と発表。地村夫妻の長女、長男、次男と、蓮池夫妻の長女、長男の計5人を政府専用機で連れ帰った。また、曽我ひとみの夫、脱走米兵のジェンキンスと、2人の間にもうけた娘2人についても、金正日から「自分は家族が離散することを望まない」との言質を引き出し、同年7月には3人がインドネシアに出国、家族会議の上で日本に入国させた。
「水際だった手腕」と言えるではないか。
むろん、ニューヨークにいた私がこうした動きを自ら取材していたわけではない。が、その一部始終を特別な興味と関心を持って見つめたし、その後も経緯について詳しく調べ続けた。そこで得た結論は、小泉が、日本の政治家としては類まれな思考と構想力、洞察力、想像力、判断力を持ち、速い決断ができる、そして特別な責任感を持つ人物、ということであったし、訪朝を実現した裏方の人物への信頼がよほど強かったと感じた。
そこで、その人物が誰だったかの探索を始めた。間もなく、それが外務省でアジア太平洋局長の任にあった田中均という外務官僚であったことがわかる。
この人物について、親しい外務官僚に尋ねると、田中は80年代に北東アジア課長となり、87年11月に起きた大韓航空機爆破事件の実行犯として逮捕された金賢姫(キムヒョンヒ)に最初に会った日本人官僚で、そこで日本人の「拉致」という忌むべき行為の可能性を最初に聞いた人物であった、以来、日朝の正常化に格別の使命感を持ち、その方策を考え続けてきたという。彼が霞ヶ関で主流を占める東大卒でなく、京大卒であることも、こうした執念の源泉ではないか、という者もいた。
当然のことながら、私はこの田中均という男に猛烈な関心が高まった。会いたいと思った。
彼は、小泉訪朝の後、政務担当の外務審議官となり、本省にこもったまま05年8月の退官を迎えた。ニューヨークに常駐する身では会いにも行けない。時期が到来したのは、私が日本に帰国してかなりの歳月が流れてからであった。ニューヨークでご一緒した人々の会である「NY11会」(9・11を経験した人々)だったか、「NY100会」(日本クラブ100周年の時期にいた人々)だったか、談笑の席で、大手商社の米国会社社長だったSという人から、「内田さん、田中均という人物と会って見ない」と聞かれたのである。
一も二もなく応じて、東京・赤坂でかねて懇意にしているウナギ屋に席を設けた。個室でサーヴしてくれるから都合が良い。初対面、しかも紹介者あっての会合だ。「取材」というわけには参らぬから、先方の話を録音するなど問題外。四方山の話に紛れて、小泉訪朝までの苦労話などを聞いた。印象としては、主義主張が確立していて、物事をハッキリ言える人だということ、つまり話されることの信憑性に疑いを挟む余地はなかった。
それからさらに年月が流れて、最初の「訪朝」から20年が経った22年に、時事通信とNHKから本人の語ったテキストが出た。時事の方は本人の寄稿、NHKはインタビューだった。読むと、私が聞いた話との間にギャップがない。そこで借用することにしたが、紙幅の関係で字句の表現を変えたり、要約したことはお許し願いたい。
<01年にアジア大洋州局長になった時、小泉総理と向き合い「北朝鮮と交渉がしたい」と言った。1年間の交渉で修羅場もあったが、挫けなかったのは、それまで北朝鮮との関係で歴史から安全保障の問題までほとんどの問題に関わってきたという自負があったから>
<日本にとって同盟国米国との関係は格段に重要である。場合によっては米国と利害が反し得る課題で、同盟関係を損ねぬ注意が必要だった。ブッシュ政権が北を「悪の枢軸」と呼び、厳しい姿勢をとっていたからこそ、日朝交渉が実現したと言える。米国の強硬な姿勢に怯えた北朝鮮は米国の強い同盟国である日本との関係改善を考えたのだろう>
<訪朝を3週後に控えた8月末、総理の指示で来日していた米側代表団(アーミテージ国務副長官、ケリー国務次官補、ベーカー駐日大使ら)に平壌宣言案も含め説明をした。アーミテージが「自分がパウエル国務長官に電話するので、明日、小泉からブッシュに電話して欲しい」と言ってくれた。翌日の電話(田中も同席)で、ブッシュは「あなた(小泉)のすることは全面的に支持する」と述べてくれた> (以上時事ドットコム)
1年に及んだ交渉のカウンターパートについては、<オーバーをバーンと脱いだらね、軍服着てるんですよ、勲章がパーッと付いててね。「自分は命かけてるんだ。この交渉が上手く行かなかったら責任取らなきゃならない」。北朝鮮の場合、それは死なんだと>(NHKマガジン)
交渉が決裂寸前となったこともあり、それを乗り越えたのは小泉の一言だったという。交渉の状況を報告した時のことだった。
<答えはね、「田中さん、それでいつ行くんだ」って。「自分が行かなければ、拉致の話は全部闇に葬られてしまう」と。僕はこの総理大臣のもとで良かったと心から思いました。あれが瞬間だった> (同)
交渉は再開され、小泉訪朝を前提にして、どういう外交シナリオを組んで行くか、という段階に進化したのだった。(敬称略、つづく)