不眠不休でレポート
現在も続くテロ活動
前回に続きSeptember 11について語ろう。
事件が起きたのがテレビ朝日の夜の大型報道番組『ニュースステーション』の放送中で、同番組は日付が変わる12時まで時間枠を拡大したが、そのすぐ後は『報道特別番組』として事件の報道が続いた。
それまで自宅から電話でリポートしてきた私には、スタジオからの顔出し出演が必須となったが、当初、テレビ朝日支局からの衛星回線が不通になっていた。急ぎ、ロックフェラーセンターにあるAP通信のスタジオを借りることにしたようだが、そのうちに支局の回線が復旧した。37階の自宅から降りると、玄関前に迎えのリムジンが待機している。しかし、南から避難してくる人々が道一杯に広がり、とても車が走れる状況ではない。500メートル余りの距離を駆け足で支局に向かった。
スタジオに座ると日本時間の朝まで番組が続き、短い休息を挟んで『モーニングショー』や昼の情報番組、さらには夕方のネットワーク・ニュースへとつながり、寝る間もなく翌日の『ニュースステーション』に続いて行く。日本でもすべての情報・報道番組が、この事件一色に塗りつぶされた。そして、こんなスケジュールが5日は続いた。出演番組の合間をぬって、自宅に帰り、シャワーを浴び、服を着替え、次の出演に備えて内容の準備をする。仮眠の時間はほとんどなかった。
若い特派員たちも、不休で世界貿易センター=WTC現場での救出活動や、混乱する道路網・公共交通機関などに散って、最新の情報を取材・報告した。連邦航空局は全米の空港に閉鎖を命じ、アメリカ本土を飛ぶすべての商業航空便がキャンセル、マンハッタン島に入る交通も大幅に規制され閉鎖状態となり、こうした孤立状態が1週間続いた。
前回、2機目のUA機が南棟に衝突した瞬間に、私がイスラム過激組織「アルカイダ」によるテロ攻撃と直感したと書いたが、それには十分な根拠があった。
実は、彼らがWTCの破壊を試みたのは、これが初めてではなかった。私が2度目のニューヨーク任務につく直前の93年2月26日正午過ぎに、北棟地下2階の公共駐車場でバンに積んだ強力な爆弾を爆発させていたのである。その推定圧力は1平方インチあたり15万ポンドと推定された。メートル法換算では2・54平方センチあたり680トンとなる。爆速は秒速4・5キロというとんでもない数字とされた。
駐車場4つのレベルに30メートルの巨大な穴が開き、2つのタワーの93階まで爆風が吹き上がって、全館停電、非常灯もエレベーターも止まり、階段の吹抜けには不純物を混じえた濃い煙が充満して入館者の避難は困難を極めた。港湾公社職員5人と胎児を宿していた女性秘書の計7人が死亡、1000人を超す負傷者を出した。
WTCには放送電波を送出するアンテナがあったので、この停電で、ニューヨークのテレビ、ラジオ局は1週間近くにわたり無線放送信号を失い、ケーブル会社のマイクロ波を介するか、通信衛星経由でしか放送ができないことになった。
テロリストらは、濃厚な煙がタワー全体を覆い、人々をゆっくり殺して行くと推測する一方、爆風などで北棟が南棟に寄りかかるように倒壊し、2つのタワーがもろともに崩壊することを期待したが、ビルの倒壊は免れ、8年半後の旅客機を使った〝ミサイル攻撃〟に持ち越されることとなった。
それでもトゥイン・タワーの復旧には、2億 5千万ドルの巨費を投じて丸1月以上かかり、南棟は3月18日、北棟は4月1日まで再開できなかった。公共駐車場の営業再開までには、さらに数年を要した。またテロリストらは、FBIなどの捜査で逮捕され、実行犯4人には合わせて240年の懲役刑が判決された。
ここでアルカイダというテロ組織について述べよう。
アルカイダは、19 79年に始まったソ連のアフガニスタン侵攻に抵抗する武装組織として88年に結成された。指導者は、サウディアラビアの富豪に生まれたウサマ・ビン・ラディン。戦争の初期から、ソ連軍に抵抗するアラブ人によるイスラム義勇兵ムジャヒディンのゲリラ戦を支援する活動に従事、86年以降は自らも戦闘に参加するようになった。89年2月にソ連軍がアフガンから撤退したためサウディに凱旋、超大国ソ連を破った英雄として迎えられた。アフガン戦争中は、米ソの冷戦を背景にムジャヒディンを支援したアメリカの資金や援助物資を受け取るなどしていたが、イラクによるクウェート侵攻に端を発した湾岸戦争の時点で徹底した「反米」に転じる。
90年8月にイラクがクェートを軍事占領、そのイラク軍を追い払うため、アメリカが戦争準備に入り、サウディアラビア領内に米軍の駐留基地を作った。ビン・ラディンは、メッカとマディーナの2大聖地を持つサウディが異教徒の米軍を常駐させることに強く反発した。91年の湾岸戦争の翌年、密かにスーダンに移ったビン・ラディンは、副官のアイマン・ザワヒリらと組織を強化、対米テロへの準備を進める。
その最初の攻撃が93年のWTC駐車場の爆破だった。
96年にはテロリストの訓練基地を兼ねた拠点を、勝手知ったアフガンに移動、98年8月には、アフリカ西部のタンザニアとケニアそれぞれの首都で米大使館を同時に爆破する自爆テロを敢行、大使館員と民間人合わせて224人を殺害、5千人以上に負傷を負わせた。さらに2000年10月には、アラビア半島イエメンのアデン港に停泊していた米海軍のミサイル駆逐艦コールを強力な爆薬を装備した小型ボートで自爆攻撃、左舷を破壊して水兵17人を殺害、39人を爆風で負傷させるなど、執拗な反米テロ攻撃を続けていた。
この間ビン・ラディンは、96年8月と98年2月の2度にわたり、イスラム法学に基づいて発令する布告=ファトワを出し、2つの聖なるモスクの地(であるサウディ)を占領したアメリカへのジハード=聖戦を宣言、異教徒アメリカ人をアラビア半島から駆逐すべきことを全世界のムスリムに呼びかけた。「世界各地でアメリカとその同盟国の国民を、軍人・民間人の区別なく殺害することが、全ムスリムに課せられた責務だ」と指令したのである。
ビン・ラディンはさらに、9・11同時テロ攻撃への直接の関与を自ら認めた2004年の声明では、「1982年、アメリカはイスラエルによるレバノン侵略を許し、自らも第6艦隊を派遣した。レバノンの破壊されたタワーを目にした私の心に、我々も同じやり方で迫害者を罰するべきとの考えが浮かんだ。アメリカのタワーを破壊し、我々が体験した一端を彼らにも体験させることで、彼らが我々の女性や子供を殺すことを思い止まらせるべきだと考えた」と述べた。82年のレバノン侵略とはベイルートにあったパレステイナ解放機構=PLO拠点を攻撃、アラファト議長以下をチュニスに退去させた戦闘を指している。2度にわたるWTC攻撃の動機が、こんな時期に芽生えていたのか、とその執念に驚かされた。
ビン・ラディンは連邦捜査局FBIの最重要指名手配犯となり、10年に及ぶ追跡の末、2011年5月2日、米軍特殊部隊がパキスタン北部、イスラマバードの北東50キロにあるアボッターバードの潜伏先を急襲、オバマ大統領らがホワイトハウスに生中継された映像を見ている前で殺害された。
アルカイダは、ロンドンでの同時爆破事件(05年7月)はじめ、数々のテロ攻撃を仕掛けながら、現在も活動を続けている。(敬称略、つづく)