成熟した沖縄サミット
21世紀繁栄の鍵「IT」を全世界で
2000年は沖縄G8サミット(ロシアも参加)の年であった。G7時代に日本が議長国を務めた主要国サミットは79、86、93年の3回、いずれも東京で開かれた。本社の取材陣が大量動員されるのだから一時帰国するまでもない、と私は取材に帰国しなかったが、沖縄開催となって出張要請が来た
首相は森喜朗。93年に下野して自社対立の55年体制に終止符を打たされた自民党は、翌94年、村山富市・社会党委員長を首班指名する奇策を打って政権に復帰、95年に橋本龍太郎、98年から小渕恵三と自前の総理に切り替えていたが、その小渕が00年4月2日に脳梗塞で倒れ、再起不能となった。自民党は、青木幹雄、野中広務、村上正邦、亀井静香に森喜朗を加えた有力議員5人が緊急協議し、幹事長だった森を後継総理にすることを決めたが、この密室談合による決定が不評を極め、森内閣は低支持率で発足、翌年2月には読売新聞の世論調査で8・6%とヒト桁に沈み込む惨状を呈した。
さて、森と私との接点は意外に早くやってきた。首相就任から1月後、大型連休中の5月5日に、森がニューヨークにきてビル・クリントンとの首脳会談に臨んだのだ。小渕が倒れる前に決まっていた日程だった。
森には子息2人が同行していたので、彼らを日本食のランチに誘った。初めての日米首脳会談に特別な思いや提案でもあれば聞き出したいと思ったのだが、2人の答えは「何も聞いてません。自然体じゃないですか」というトボけたもの。「自然体」で日米首脳会談に臨んだ総理など聞いたことがない。森というのは、総理就任後にプーチンを仰ぎ見るような会談を重ねたが、外交に習熟していたわけではない。7月初旬の沖縄サミットへの覚悟も聞いたが、「まだ、これからでしょう」――。「対処方針は、もう決まってるはずだぞ」と言ってやりたかったが、2人が何も知らず、関心もないのが明らかなので、それ以上の質問は諦めた。
その夜、森と報道陣の夕食会があり、今後の日米外交や沖縄サミットについて何らかの見解が述べられるかと半分は期待したが、世間話の延長みたいなことばかりで政策的な領域に踏み込むことはなかった。ただ、終わり際に森が近づいてきて「内田さん、昼は有難うございました」と子息にランチを提供したことに短く礼を言った。
「これでは沖縄サミットに多くを期待しない方が良い」というのが私の結論で、6月末、猛暑の東京に入った。うだり上がった体で沖縄に着くと、こちらは風が心地よく吹いて、暑さも東京よりはるかにマシ。
沖縄には、90年代に2度訪れる機会があり、市街地の真ん中にある普天間飛行場の危険を間近に見てゾッとした。琉球放送会長の案内で、本島北部の名護市辺野古に行き、「ここに滑走路を新設する」と言われた。すでに米海兵隊のキャンプ・シュワブと、キャンプ・ハンセン基地があり、普天間の移設先としては絶好に思えていたので、いま一度、現場を見に行った。
さらに、本島南端・糸満市の平和祈念公園には「平和の礎(いしじ)」ができていて、クリントンが訪問するというので、事前に見ておくことにした。高さ1・5メートル、黒みを帯びた刻銘碑は班れい岩と言うらしい。2・2キロにもわたって屏風状に配置され、国籍、軍人、民間人の差別なく、沖縄戦で犠牲になった人々の名を刻み込んでいる。24万人を超えると言うから、壮観ではある。
沖縄サミットは、私の低調な予測に反して、それなりに成果を上げた。
恒例のコミュニケや首脳声明と並んで、「グローバルな情報社会に関する沖縄憲章」という文書が採択された。
「情報通信技術=ITは21世紀を形作る最強の力の一つであり、すべての者に大いなる機会を提供する……人々が潜在能力を発揮し、希望を実現しうる社会を目指し、持続可能な経済成長、民主主義の強化、国際的平和・安定などの諸目的のためにITは活用されるべき」とする。そのために、「デジタル・オポチュニティ(ITが提供する機会)の活用、デジタル・ディバイド(情報格差)の解消に向け、全世界的参加を呼びかける」とし、「ITに関するルールが、経済的取引における革命的変化に対応しうることを確保すべき」と提唱した。
ITによるグローバル化の波が最高潮に達しようとする時期のことだったが、ここに書かれた内容は今も通用する。むしろ日本では、デジタル化が停滞し、20年以上もたった今頃になってデジタル庁などと言う役所ができ、DX=デジタル・トランスフォーメイションなどと言う言葉が殊更に強調されている状況である。
一般討議では、重債務に苦しむ貧困国問題へのイニシアチブ、多角的貿易の利益を途上国が享受できるよう支援する、バイオテクノロジーやヒトゲノムなどの生命科学、気候変動、感染症、テロ……など21世紀入りを目前にした世界が抱えていた幅広い重要課題を網羅して、それぞれに対応を促した。
終了後の森の記者会見も、整然と行われ、発言にも問題になる箇所はなかった。
「今回のサミットは故小渕前総理が万感の思いを込めて沖縄開催を決定したことに基づくもの……私達G8の首脳は、この沖縄の地で、21世紀が平和と希望に満ちたものとなり、人々が一層の繁栄を享受し、心の安寧を得、より安定した世界に生きられるために、どのようなことをして行かねばならないか、活発で実り多い議論を続け、この目的のために最大限の努力をすることで一致した。私は議長として参加首脳の意見のとりまとめに全力をもってあたり、21世紀の世界と我が国の進路を切り開くべく、全力を尽くした……今次サミットでの議論の成果は、皆さんのお手元に配布されているコミュニケに反映されている。議長として、私は、21世紀を形作る最も強力な力の1つとなるITを主要テーマの一つとして位置づけた。ITがもたらす利益を最大のものとし、これを万人が享受できるようにするためには何をなすべきか、途上国と先進国との間の情報格差を如何に解消するかといった点を中心に議論を行った。その結果をとりまとめ、全世界的な参加を呼びかけたものが、ITに関する「沖縄憲章」であり、この憲章が今後の世界経済の発展にとって、重要な役割を果たすものと期待している。我が国は、ITを経済発展のための起爆剤とするため、関連ルールや情報通信ネットワーク等の環境整備や必要な規制改革を迅速に行う。また、対外的には、先般打ち出した、今後5年間で150億ドル程度を目途とする包括的な協力策を通じた国際協力等を積極的に推進して行きたい」――
もとより森自身の言葉ではない。役人の作文ではあろうが、冒頭発言を一気に読み下した森の表情には、得意と安堵の両面の感情が浮き出していた。
一連の経過を直近から見ていて感じたのは「サミットの成熟」と言うことだった。年に一度、主要国首脳が席を同じくして膝詰めで話し合う目的から発して、首脳側近らが事前会合を重ねてテーマを設定し、落とし所を探し、各文書ををほぼ完成形に近いまでに作り上げる――という作業が完全に定型化されたのである。山の頂上を意味するサミットに導く、登頂案内人ということで「シェルパ」と呼ばれる上級官僚たちの意志と能力が、サミットそのものの成否を決めるところまで昇華したのであった。
ただし、これはサミットの「形骸化」でもあった。(敬称略、つづく)