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ウクライナ侵攻に周到な準備も
プーチンの大いなる誤算
2025年11月14日号掲載|11
前回、2014年の冬に、ウクライナの政変に伴う混乱につけ込んだロシアのウラジーミル・プーチンが、クリミヤ半島を事実上、強制併合した経緯を述べ、それが22年の全面侵攻につながったと書いた。そこで今回は、14年から22年までの間に、プーチンがどれほど周到巧緻な陰謀をめぐらせて準備を重ねたかを振り返ってみたい。
14年と17年にウクライナ北東部ドンバス地方(ドネツク、ルガンスク両州)を訪れたという東京大学法学部政治研究科の松里公孝教授は、プーチンがウクライナに全面侵攻した直後の22年5月の東大報電子版のインタビューに次のように答えている。

「2014年にウクライナでユーロマイダン革命(親露派のヤヌコヴィチ政権を打倒した政変)が起こると、これに反抗する急進派が両州で州庁舎を占拠しました。急進派は州ごとに『人民共和国』を名乗り、ウクライナと戦争になりましたが、15年までには軍事境界線が引かれました。大体、もとのドネツク州、ルガンスク州の総面積の3分の1くらいが人民共和国の実効支配下に入りました(一部略)」
クリミヤ併合の時と同様……と言うより、クリミヤで味をしめたプーチンは、ロシア系住民など親露派の多い地域に「反乱」を促し、「人民共和国」という名の、ロシアの言うままになる政体を作らせたのである。
状況を心配した西欧の独仏両国が仲介に入り、ロシアにも同席を求めた上で15年2月にベラルーシの首都で会合して「ミンスク合意」なるものを結ばせる。ウクライナを連邦化することで、ドネツク、ルガンスク両人民共和国をウクライナに戻すことを目的としたものだったが、これは連邦化を嫌うウクライナにとっても、ウクライナに戻りたくない人民共和国にとっても喜べる解決策ではなかった。プーチンにとっては付け込みやすい状況だった。
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先の松里教授の答えを再び引用する。
「14年8月ごろになると、一方ではウクライナ軍のドンバスに対する全面砲撃が始まり他方ではマレーシア機撃墜事件なども起こって、プーチン政権としても紛争を放っておくわけにはいかなくなりました。そこで両共和国を支援し始めるのですが、その際、①ウクライナからの分離運動をそれまで指導していた共産党やドンバス急進派を排除すること ②社会革命を止めること ③長期的にはウクライナに戻ることに同意すること――という3条件を突きつけました。これらをドンバスが飲んだのでロシアが支援するという関係が19年くらいまで続きました」
プーチンにすれば、①現地共産党や急進派がはびこるのはロシアにとっても面倒のタネになる ②社会革命もロシアが併合する上では邪魔にしかならない ③国際社会に向けては併合の意図を隠すためにウクライナ領であることを認めておいた方が良い――という考えがあったからであろう。
では、プーチンがなぜウクライナの併合に執着したかといえば、北大西洋条約機構NATOの東方拡大への警戒心を募らせていたからだった。
NATOは、04年までに、冷戦下でワルシャワ条約機構のメンバーだった旧東欧諸国だけでなく、旧ソ連領だったバルト3国まで加盟させ、08年4月のブカレスト・サミットでは、ウクライナとジョージアを将来的に加盟させることを決議していた。ロシアの西の国境線の大半がNATOと接することになってしまうのだ。
再び松里教授の話。
「2018年以降、列強による超音速ミサイルの開発が本格化すると、プーチン政権のNATO拡大に対するアレルギーは一層強くなりました。万一、ウクライナが加盟し、超音速ミサイルがハルキウに配備されれば、モスクワまで5分以内で到達すると言われる」
しかも19年には、当時のウクライナ大統領ポロシェンコが憲法を改正してNATO条項を入れてしまった。この年の選挙でポロシェンコは、現在のゼレンスキーに負けしまうのだが、ゼレンスキーも親西欧に軸足を置いていることでは変わりがない。危機感を深めたプーチンは、ウクライナへの全面侵攻を喫緊の課題とするようになっていった。(次ページへ続く)