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敗戦から80年──
“必敗予測”と東條の驕り
2025年9月19日号掲載|11
日本の敗戦から80周年の夏がなかなか終わらない。気候変動、つまり地球温暖化の影響で酷暑が続き、気象庁は「9月も8月と思って欲しい」と言っている。2年前に比べ平均気温が1.5度から2度も上がっているそうだ。温暖化を防止する国連の気候変動枠組条約を実行に導くパリ協定では「産業革命以前に比べた平均気温の上昇を1.5度未満に抑制する」と規定しているが、そんなものはとっくに超えてしまっている。
むろんこれは日本だけの話ではない。地球全体が炎暑化している。にもかかわらず、「(温暖化のもとになる)化石燃料をもっと使え、もっと燃やせ」と世界中に叫んで、パリ協定からは脱退してしまった大統領がアメリカにはいる。
ただ、ここで温暖化を論じるつもりはない。敗戦80周年で思うことを書き止めておきたい。私も戦争を肌で知る稀少の世代となったからだ。

80年前の私は6月に6歳になっていた。神奈川県葉山町の森戸海岸から至近の借家で、庭には大きな池と、その向こうに築山があって鬱蒼とした木々が植えてあった。池の手前は10坪程もあろうか芝生の庭だったが、戦況が悪化した1944年の夏頃から「食糧増産」の指示が出て、芝生を掘り返し、畑にしてカボチャやナス、キュウリなどの野菜を作っていた。
ませた子で、ラジオを聞くのが大好き。「東部軍管区情報」などと言う言葉を真似て、よく声に出していた。ただ、8月15日正午からの終戦の詔勅放送は、初めて聞く天皇の肉声だったが、雑音がひどく聞き取りにくかった。降伏に反対する軍部が妨害電波を出したからだと思っているが、放送を聞くために我が家に集まった近所の大人たちが口々に「戦争が終わった」と、慨嘆とも安堵とも取れる言葉を発していたのを覚えている。ラジオから聞こえる勇ましい戦況のニューズとは裏腹に、日々の暮らしは窮乏の一途を辿り、日本が敗戦に向かっていたことは誰の目にも明らかだった。
顧みるまでもなく、日本があの戦争に向かって行ったのは無謀としか言いようがない。
1937年に始めた日中戦争が泥沼にはまり、奥地重慶に避退した蒋介石に米英などが手厚い援助物資を送る一方、日本に戦争行為の中止と中国大陸からの撤兵を求める国際世論が強まっていた。しかし、日本国内では515事件や226事件などクーデターもどきのテロ事件が起き、軍部の政治への容喙が強まっていた。政治家の多くが軍人によるテロの標的にされるのを恐れて口を閉ざしつつあった。
東條英機らの陸軍幹部は、こうした状況を良いことに国政を壟断する挙に出る。
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しかし、その軍部にも的確な情勢判断をしようという「良心」はあった。
1940年9月30日付施行の勅令により10月1日に設置された「総力戦研究所」という機関があって、翌年早々に2代目所長となった飯村穣・陸軍中将が机上演習の結果として、「日米もし戦わば日本必敗」という結論を開戦4ヵ月前に出していたのである。
総力戦研究所は、陸軍省経理局にあった戦争経済研究班の機能を引き継ぐ形で設けられたもので、官庁、陸海軍、民間から選抜された若いエリートが研究生となり、1年の任期で国家総力戦に関する基本的な調査研究を行う、今風に言えば「大学院大学」だった。
1941年4月1日に入所した第1期研究生は中央官僚22、武官5、民間人8の総勢35人、1週間後に陸軍中佐だった皇族の閑院宮春仁が特別研究生として加わった。
所長の飯村は入所から3ヵ月余が経過した7月12日に日米戦争を想定した机上演習=シミュレーション=を行うよう命じ、研究生たちを模擬閣僚や朝鮮総督、日銀総裁などに据えて演習をスタートさせた。研究生たちは、それから8月にかけ、想定情況と課題に応じて軍事・外交・経済各局面での統計資料など現実のデータをもとに日々分析し、戦争の展開を予測した。(首相に擬せられたのは産業組合中央金庫調査課長だった窪田角一)
結果は、8月27、28両日に当時の首相・近衛文麿や陸相・東條英機ら政府・統帥関係者が出席して首相官邸で開かれた総力戦机上演習総合研究会で発表された。その内容は、「開戦後、緒戦段階の勝利は見込まれるが、その後の推移は長期戦必至であり、日本の国力はその負担に耐えられない。戦争終末期にはソ連の参戦もあり、敗北は避けられない。故に戦争は不可能」とする、まことに精緻的確な「必敗予測」だった。(次ページへ続く)