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Detail 115:G20が果たした役割と変遷

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2025年4月11日号掲載|11

G20が果たした役割と変遷
金融危機対応から恒例行事へ

G20と呼ばれる組織について書いておきたい。

G20はGroup of 20 major economiesと呼ばれるもので、19の主権国家に欧州連合EUを加えた20の経済主体で構成される(23年からはアフリカ連合AUも加わり事実上G21になっている)。

1999年ドイツのケルン・サミットとともに開かれたG8の財務相・中央銀行総裁会議で、アジア通貨危機への対応策を経済と金融面から話し合う場として「G20財務相・中央銀行総裁会議」の設立に合意、サミットでも認可され、12月にベルリンで初会合が開かれた。構成国は、ロシアを加えたG8諸国に、米大陸からメキシコ、ブラジル、アルゼンチン、アジア・大洋州からインド、中国、韓国、インドネシア、オーストラリアに加えてサウジアラビア、トルコ、南アフリカの19ヵ国とEU、それに国際通貨基金IMFや世界銀行などの国際機関も加わり、その後も年1回の会合を重ねていた。

G20
2008年11月15日、コロンビア特別区ワシントン市で開催された第1回G20に出席した各国首脳 (CC BY 2.0)

08年9月に起きたリーマンブラザーズの破綻が、一気に世界全体の経済危機に拡大する様相を呈すると、フランス大統領だったニコラス・サルコージーが、「ブレトンウッズのように、G20の規模で通貨制度を再検討する必要があるのではないか」と提案、翌月13日には英首相ゴードン・ブラウンも、「新たなブレトンウッズを編み出すために首脳会合が必要」と同調した。

ブレトンウッズとは、第2次世界大戦末期の44年7月に連合国がニューハンプシャー州ブレトンウッズで会合し、終戦後の世界経済を安定に導くため、金1オンス35ドルに固定された米ドルを基準に各国通貨の交換比率を一定に保つことで自由貿易を発展させようと決めたもので、戦後の国際経済の基礎をなすシステムだったが、71年にニクソン大統領が金とドルの交換禁止を宣言したことで、米ドル基軸の固定相場制が崩れ、国際通貨市場での変動相場制へと移行した。

リーマン破綻による経済危機が世界に広がるに及んで「第2のブレトンウッズ」の必要性が叫ばれたのだった。
実はこの年、G20の議長国は日本だった。首相の麻生太郎は、「私も首脳会合に格上げしたG20の開催が必要と考えていた」と言っていたが、サルコージー発言に触発されたことは間違いないだろう。ただ緊急のことなので、警備などの準備に時間をかけられない。成田国際空港周辺での開催を各国に提案した。麻生による10月16日の国会答弁によれば、「私が最初に考えたときには、成田の飛行場でもええという発想で、パッと集めて4時間も開いて、その後は全部散っちゃう、そういうものが現実的だ」と考えたそうだが、「乗ってこない国があってダメになった」と説明していた。

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危機意識が薄いと言うか、麻生の感覚は国際常識を外れたもので、これでは首脳同士が集まる意味もない。たった4時間の協議のために極東の日本まで各国首脳に足を運ばせようと言うのか。議長国としてはまことに不埒なことで、麻生が言う「現実主義」にもなっていない。米大統領ジョージ・W・ブッシュがかけてきた電話で、開催地と時期の決定はアメリカが引き受けることになった。

最初のG20サミットは、ブッシュの主催で08年11月14〜15日にワシントンの国立建築物博物館National Building Museumで開かれた。ここで発出された共同声明については、この連載の111回目に触れたので重複は避けるが、サブプライムローンに伴う危機が進行する中で、各国の政策・規制・監督当局が適切に対応できなかった反省の文言がハッキリ書き込まれた。

事態の緊急性に対応するため、5ヵ月後の09年4月にはロンドン、さらに5ヵ月後の同年9月にはアメリカのピッツバーグという頻度で首脳会議が開かれた。(次ページへ続く)

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G20サミット

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