既得権益と闘った小泉内閣
果断、明快、速度で有言実行
2006年に話を戻そう。
前にも書いたように、小泉純一郎政権が5年半近い任期を終えた年であった。 在職日数は1980日、歴代4位となる。
日本のメディアは、小泉政権に対し、「小泉劇場」などと揶揄して、あまり評価しないことが多い。しかし、これほど、果断かつ明快に既得権益と闘い、そして「有言実行」に徹した内閣を私は知らない。
21世紀が明けて以降、今24年に至るまでに、日本には10人の総理大臣が登場した。安倍晋三が2度にわたってその座につき、合算すると3188日という飛び抜けた在職日数を記録したので、残り8人は、岸田文雄の3年を除けば1年ごとの短期政権で、これと言った実績はない。安倍はスローガンが好きで毎年のように下手な旗印を掲げていたが、実績に結びついたものはなかった。むろん長い間にはいろいろ政治判断を下したけれども、「息を吐くようにウソをついた」総理でもあった。「政治家にウソはつきもの」とも言うが、安倍のウソはその量と質において規格外だった。それに対して小泉は、ウソらしいウソをつかなかった。

そもそも、小泉政治を「劇場型政治」と非難がましく規定する連中は、民主主義をどう理解しているのか。
民主主義政治の本義は、主権者たる国民に選ばれた代表が国を治めるにあたって、主権者の意志をできるだけ尊重し、高い透明性のもとで政策を運用することである。「劇場型」というのは、政権運営の過程を誰の目からも見えるようにすることであって、透明性が高い証左ではないか。劇場型のどこが悪い?
「劇場型」と批判する側に、「ポピュリズム」に通じるとする考えがあることはわかる。ポピュリズムとは、広辞苑には「一般大衆の考え方・感情・要求を代弁しているという政治上の主張・運動」と書かれているが、それを「悪いこと」のように主張する連中は、「バカな大衆に媚びを売る」ことと同義にして使用することが多い。
だが、これから述べるように、小泉が総理大臣として行なった政策は、「大衆に媚びを売る」ものでは決してなかった。むしろ、賛否の分かれる問題、政治家が実行するのに躊躇する課題に、小泉が自らの意志と信念を持って明確な方向性を打ち出し、果敢に実現したものが多い。それは、歴代の総理が束になっても成し得ない力仕事でもあった。
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最初の内閣は01年4月26日に発足したが、組閣からして異例だった。自民党の常識とされた派閥からの推薦を一切拒否して、文字通り、小泉が適材適所と信ずる人事を断行した。女性を過去最高の5人も入閣させ、民間からも、竹中平蔵・慶應義塾大学教授を経済財政政策担当相に、元文部官僚で国立西洋美術館館長を務めていた遠山敦子を文科相に起用、前任の森喜朗内閣で環境相だった川口順子(通産官僚を卒業してサントリーの常務取締役から起用)を留任させた。田中角栄の娘・真紀子を外相に登用もした。中谷元、石原伸晃ら若手議員も初入閣させている。直後の世論調査で、内閣支持率は軒並み80%を超えた。
5月7日の所信表明演説では、既得権益との闘いに「恐れず、ひるまず、とらわれず、聖域なき構造改革を断行する」と述べた上で、当時「失われた10年」とされていた経済再生について「構造改革なくして景気回復なし」と、その後長く小泉の旗印とした標語を示し、金融機関の不良債権処理こそが「経済改革の1丁目1番地」とした。
外交でも小泉の行動は果断だった。参院選直前の6月30日、ブッシュ(子)大統領とキャンプ・デービッドで会談、「貴殿が進める構造改革を全力でサポートする」との言質を得て個人的信頼関係を構築した。そして、9・11の同時多発テロ事件が起きると、すかさず「極めて卑劣かつ言語道断の暴挙」とする声明を発し、「憲法上、米軍の武力行使と一体化しない範囲内で自衛隊が支援するのは可能」との見解を元に新規立法に着手。10月5日にテロ対策特別措置法案を国会提出、自衛隊が在日米軍基地を警備できるようにする自衛隊法改正案、巡視船の船体射撃を許容する海上保安庁法改正案も加えたテロ対策関連3法案が18日に衆院通過、29日に参院でも可決・成立し、11月2日には施行、即日海上自衛隊の護衛艦、補給艦がインド洋に出航するという「離れ業」も見せた。03年のイラク侵攻に際しては「イラク特別措置法」により陸上自衛隊を現地に派遣した。
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外交面の最大の功績は、前にも書いた02年9月と、03年5月、2度にわたる訪朝と、それにより、現地で出生した子女や配偶者らも含めると拉致被害者ら13人を「帰国」させた前人未到の実績に尽きるが、6度出席した主要国首脳会議(サミット)でも、その都度、存在感を示し、日本の考えを主張するだけでなく、しばしば全体の議論を主導する役割を果たした。日本の首相としては異例の、かつ颯爽とした姿であった。
内政面では、最重要課題に掲げた不良債権処理が、柳澤伯夫金融担当相の怠慢で進まないのを見ると、02年9月の内閣改造で竹中に金融担当相を兼務させ、そこから2人3脚で不良債権処理に全力を上げた。その進捗により、失業率、株価、経済成長率、税収は劇的に回復、国債発行額は25兆円まで削減、「増税なき財政再建」に現実味を持たせた。
そのうえで、構造改革の試金石とされたのが、道路関係4公団など特殊法人の改革だった。01年12月の閣議で決めた「特殊法人等整理合理化計画」で、NHK以外の特殊法人の形態が抜本的に変わることとなり、翌02年6月には民間有識者7人からなる道路関係4公団民営化推進委員会を設置、04年6月には関連法案を成立させて、道路4公団を6つの高速道路会社に民営化した。Too Little, Too Lateと揶揄され続けた日本の政治としては異例のスピードである。
さらに小泉政治の独自性を決定的にしたのが「郵政民営化」であった。
小泉は、03年4月に日本郵政公社を発足させた時点から、「民営化が不可欠」と断じていた。自民党内では特殊郵便局長会などと癒着した議員らが声高に「民営化反対」を唱える中、05年4月に郵政民営化法案を提出した。国会審議は難航したが、会期延長後の7月5日、衆院で採決。自民党から37人が反対票を投じ14人が棄権・欠席して、233対228、5票の僅差で可決した。しかし、8月8日の参院採決は、108対125で否決される。小泉は衆院を即日解散した。
「郵政民営化こそ全ての改革の本丸」とした小泉は、「民営化反対の議員は既得権益擁護の象徴であり、ここは国民に信を問う」とした。9月11日の投票日に向け、民営化に反対した自民党議員は公認せず、その選挙区に刺客も送った。結果は、自民党が296議席を獲得、公明党の31議席を合わせると与党が327議席という歴史的な大勝であった。郵政民営化関連法案は、選挙後の臨時国会で成立した。
このほか、地方分権にも力を入れ、国から地方への税源移譲、国庫補助負担金の軽減、地方交付税の見直しからなる「三位一体の改革」も宣言して実行した。
安全保障の面でも、有事の際に国民の生命財産を如何にして守るか、国がどのような措置を講ずるかを定めた武力攻撃事態法案を含む有事関連3法案を成立させた。
5年半の任期に、これだけ中身の濃い実績を上げた内閣は「空前にして絶後」と言えるのではないか。「小泉劇場」などと安易に批判する「評論家」に敢えて問いたい。(敬称略、つづく)