穐吉さん母娘が来日公演
瑞々しい興奮と感動
9月28日、東京・内幸町のイイノ・ホールで、穐吉敏子さんの演奏を聴いた。
ステージ中央にスタインウェイのピアノがデンと置かれ、クラシックのピアノ・リサイタルと同じセッティング。だが、ピアノから発せられる音は、穐吉さん独特の風雅を極めたジャズだった。
穐吉さんには、私たちのニューヨーク暮らしの間に何度かアッパー・ウエストサイドのタウンハウスに招かれて、手料理のフレンチのコースと、3千本を超すワインセラーから選ばれた上等なワインをご馳走になる光栄に浴した。初めてお邪魔した時に、地下のようなフロアに注意深く設営されたワインセラーを案内して頂いた。
「内田さん、お生まれはいつ?」と聞かれたので、「1939」の数字を英語で答えた。すると、「あるわよ」。一瞬、1939年産のワインを探そうとされていたのに気付き、凍りつく思いで「いや結構です。やめて下さい」と申し上げた。「だって、飲むためにあるんだもの」と譲らない。とうとう、1939産のボルドーを引き出された。私の人生で、後にも先にも決してない、自分の生まれ年のワインを賞味させて頂いた夜であった。
穐吉さんは、私よりちょうど10年、人生の先輩に当たる。来たる12月には95歳になられる。ステージに登場する時には、目と足元が少し不安のようでヘルプを必要としたが、一度演奏を始められると、聴き慣れた力強さが少しも失われていなかった。
メロディを奏でる右手はもちろんだが、リズムを弾く左手の力強さは驚嘆に値した。ペダルを踏む足は、以前のように、ともするとサッカーボールを蹴るような大きな幅で振られる。
譜面など全くない。曲の順番はあらかじめ頭に入れられていたのだろうが、曲名を並べた紙一枚が譜面台に無造作に置かれていた。それで1時間以上、10曲に及ぶ熱演を展開された。
私が穐吉さんの演奏を聴く時にいつもそうであったように、この夜も「LO NG YELLOW ROAD」で始まった。
満州に生まれ、大連音楽学校在学中に終戦を迎え、大分県に引き揚げ。別府市の米軍人向けダンスホールでピアノを弾いているうちにジャズに目覚めて上京。クヮルテットを組んで演奏活動していたのを、1953年に来日した伝説のピアニスト、オスカー・ピーターソンに見出され、著名なジャズ・レコードのプロデューサー、ノーマン・グランツにレコード化を勧めてくれた。グランツは後に、人種間の平等推進の旗手ともなった人物で、即座に受け入れ、穐吉さんは言われるままにピーターソンのリズム・セクションとして帯同していたハーブ・エリス(ギター)、レイ・ブラウン(ベース)、JCハード(ドラムス)という豪華メンバーを従えてレコーディング、初アルバム『Amazing Toshiko Akiyoshi』となった。
56年に渡米してバークリー音楽院に留学。フル・スカラシップ、初の日本人学生で、98年には名誉音楽博士の称号を贈られている。
卒業後は、アメリカに留まって演奏活動を始めたが、「はじめの何年かは、アパート代が払えるか心配になるほどビンボーだった」と述懷され、「ジャズピアノを弾くヘンな日本人の女の子がいる」という程度の関心しか払われなかったという。むろん、黄色人種への差別も大手を振ってまかり通っていた。「この国でジャズをやって行くには、長い道のりが必要だろうな」という心底からの思いで作られたのが、冒頭に演奏された曲だった。
2曲目は、青森県森田村に依頼され書かれた組曲「Four Seasons」から「冬」、そして木更津甚句をフィーチャーした「The Village」と続いた。
ここで、ご自分で書いた曲を休まれ、ディジー・ガレスピー、ウオルト・ディズニー(星に願いを)、バド・パウエルの曲が並んだ。合間のお話の中で、興味深かったことが二つ。
一つは、ディズニーの「星の願いを」に穐吉さんは親しみを持っているのだが、ハズバンドのルー・タバキン氏は「なんでそんなつまらん曲を」とバカにするのだという。「今夜はルーちゃんがいないから、やっちゃいます」と言って弾き始められた。
二つ目は、「若い頃、一番影響を受けたピアニストがバド・パウエルだった」と言われたこと。確かにパウエルは、技巧に優れ、ビバップ・スタイルの第一人者ともされたミュジッシャンだが、一方では、精神疾患で入退院を繰り返し、「時々、意味不明のことを言う」などと言われていた一面も持つ。そのパウエルとの交流について、曲間のスピーチでかなり詳しく話された。「パウエルのようにピアノを弾く女性がいる」と言う点で注目されたが、敷衍すれば、これも「ヘンな女性ピアニスト」という評価のあらわれだったという。
この後の3、4曲ほどは、穐吉さんが疲れたのか、曲間のトークもなく、聴き覚えはあるが曲名がわからなかった。そして終曲に向かう。これも、恒例と言える組曲「ヒロシマ そして終焉から」――その最終楽章「Hope」を、愛娘のMONDAY満ちるさんの絶唱と共に聴かせた。
本来なら、この夜、一番ドラマティックに終わりたい場面だったのだろうが、お疲れからか、そうした演出ができなかった。そして、儀式抜きでアンコール曲「浜辺の歌」に行ってしまった。
終演後、楽屋で伺うと、「風邪をひいて、咳が出て、とても苦しかった」とおっしゃる。私も国指定の難病と診断された病身を押して東京まで往復した身。しかも、難病鎮圧のためステロイドの大量投与を受けたために免疫力が大幅に低下しており、感染症に罹りやすいと言われている身でもあって、大変失礼ながら、風邪をおひきの穐吉さんに極度に近づけない不幸も重なって、長い会話ができなかったが、何はともあれ、穐吉さんの演奏を堪能し、お顔も拝見できて、短いながらもお話ができたのは幸せなことであった。
ところでこの演奏会だが、穐吉さんの独演は第2部で、第1部はMONDAY満ちるさんの舞台だった。キーボード、ギター、ベース、ドラムスのクワルテットを従え、豊かな歌唱力をふんだんに聴かせた上で、義父となる穐吉さんの現在のパートナー、ルー・タバキン氏から直々の教えを受けた効果でもあるのか、大変素晴らしいフルートの演奏も聴かせてくれた。共演したクワルテットも技量豊かで、特にベースの小泉克人、ドラムスの平陸は超一級と思えた。
穐吉さんに娘さんがおられることは、むろん存じ上げていたが、その演奏をまともに聴いたことがなかった。61歳になられて初めて本格的に聴いた満ちるさんの音楽性の幅と深さに、ただただ感動した夜でもあった。
中でも、彼女が暮らしたというニューヨークのロング・アイランドの先端にある入江を題材とした「The Sound」に代表された美しいとしか言いようのないメロディは、私の心に深く刻み込まれた。また、ステージ後半には琴奏者の明日佳さんが加わって、美空ひばりがヒットさせた「りんご追分」をジャズにして歌い上げ、最後はタップ・ダンス(熊谷和徳)も加わり、賑やかなフィナーレになった。
穐吉さんを見納めのつもりで出かけたのだったが、新たな発見も少なからずあって、実りの多い夜となり、終電に近い新幹線に揺られて名古屋まで帰る間も、演奏会の余韻がやむことなく私の身体を包み込んでいた。(つづく)