平和と繁栄の回廊
小泉指示への苦肉の策
私が名古屋に転居した2006年は、5年半近くにわたった小泉純一郎政権が終わる年であった。「総裁任期が終わる9月で辞める」と早くから決断、年明け6日の新年互礼会の挨拶で「とかく予想は難しいが、今年必ず当たる予想がある。それは私が退陣することだ」と述べたことが伝えられていた。
その小泉が、7月になって中東への旅に出た。それを知った時、「私が言ったことを覚えていてくれた」と、特別な感慨が湧いたのだった。
01年7月、イタリア・ジェノバで開かれたG8サミットに小泉が初めて出席した際、日本のプレスセンターに足を運んで、いきなり私を見つけると、笑顔で近づいてきて「内田さんも来てたの、ニューヨークから?」と尋ねられ、短い会話を交わした。
後に私の事務所所属ジャーナリストの角谷浩一にこの最初の出会いの話をすると、「東京に来られた時に二人で会える算段をしますか?」と聞いてきた。翌02年になって5月の大型連休が明けた後、一時帰国する日程を角谷に伝えると、「やってみます」。そして程なく、「決まりました」の連絡が入った。
私は日曜日の12日に東京着。火曜日の朝に完成したばかりの新官邸で会えることになった。4月22日にオープンしたばかりで、まだ一月も経っていない。入口の車寄せなどはまだ工事中だった。角谷の車を降りて、新築の香りがたち込める建物に入ると、そのまま最上階の「総理フロア」に案内され、執務室とおぼしき広い部屋に通される。真ん中に大きなデスク、その前に並べられた安楽椅子の一つに座らされると、すぐに小泉がやってきた。
通り一遍の挨拶をする間もなく、「何か聞いておくことある?」と聞かれたので、すかさず「柳澤(伯夫・金融担当相)さん、評判が悪いですよ」と答えた。「どこで?」「ウォール街はもちろん、ワシントンでも……」。
小泉内閣は、それまでの歴代内閣がグズグズして果たせなかった金融機関の不良債権処理を、経済構造改革の大きな柱に据えていたのだが、肝心の柳澤担当相が動かなかった。先例ばかり気にしているから進むわけがない。金融機関の改革を欠伸する思いで見続けてきたアメリカも、新政権の誕生に期待していたのだが、「また裏切られた」という空気が濃厚に漂っていた。
小泉は、「フーン」とうなずいて、それ以上言葉を発しなかったが、9月の内閣改造で柳澤を更迭し、経済財政政策担当相の竹中平蔵に兼務させた。翌月には「金融再生プログラム」を策定して不良債権処理に乗り出す。何よりスピード感があって、金融機関も、不良債権で生き延びていたゾンビ企業も従わざるを得なかった。
「もう一つ」と私が付け加えたのは、「中東パレスティナの政策、何とかならないですか」ということだった。
1947年に「パレスティナ分割」を決めた国連総会決議があり、翌年には欧米主要国の手厚い支援を受けたユダヤ人国家イスラエルが建国されたが、パレスティナ人たちは国家創設どころか、住み慣れた郷土から引き離され、難民となって苦渋に満ちた暮らしに追い込まれた。4次にわたる中東戦争は全てイスラエルの勝利に帰し、アラブ側は屈辱の日々を過ごしてきた。
この長い不公平に終止符をうつべく、冷戦が終わった頃からノルウェー外務省が息の長い秘密交渉に乗り出し、93年8月にパレスティナの暫定自治を決めた「オスロ合意」に漕ぎつけた。ヨルダン川西岸とガザ地区に新国家を建設しようというのである。
占領していたイスラエル軍の撤退が始まり、96年には暫定自治政府が開設され、国家樹立に向けた交渉も始まったのだが、国境の画定・エルサレムの地位・難民問題……を巡る最終地位交渉が2000年7月に決裂、和平への道筋が頓挫していた。
中東の火薬庫と呼ばれてきたパレスティナに和平を実現することは、冷戦が終結し、グローバル化が進展する国際情勢の中で非常に価値あることであり、私としては、日本にも貢献する余地があると考えていた。
「日本は過去にユダヤ人を虐待した歴史を持たず、アラブ人とも諍いを起こしたことがない。原油などの調達では最良のお客さんだ。そういう立場を利用して、中東和平、イスラエルとパレスティナの2国家共存に向けて積極的な役割が果たせると思うのですが……外務省はいい顔しないでしょうがね」
小泉はこれも黙って聞いて、答えなかった。しかし、私の提案を忘れていたわけではなかったのだろう。首相退陣を目前にして、嫌がる外務省をどう説得したのか、自ら現地に足を運ぶ決心をしたのだった。
外務省の記録によると、7月13日、小泉はパレスティナ暫定自治区の仮の首都ラマッラに赴き、自治政府大統領マフムード・アッバースと会って、人道支援はじめ中長期的な視野に立った地域発展と域内協力進展のための支援について説明した。具体的には、大統領府の建物再建・内装拡充、専門家の雇用などを通じた大統領府の機能強化のため約310万ドルを支援するほか、ガザ地区の衛生改善、緊急医療計画、水道整備事業、西岸地区のゴミ処理機材整備と公衆衛生状況改善など「34万労働日の雇用を創出する事業に2500万ドルを支援する」と伝えた。
さらに、「イスラエルとパレスティナの共存共栄に向け、人々に希望を与える中長期的取組も重要と考える」として、「平和と繁栄の回廊」構想を提案した。
これは、ヨルダン渓谷と呼ばれる肥沃な緑地帯に、パレスティナ、イスラエル、ヨルダンと日本の4者が協力して、農産加工団地などを建設、付加価値のある産品を恒常的に出荷することで、パレスティナの経済的自立を促す事業を確立する構想で、小泉は「日本は、イスラエルと将来独立したパレスティナ国家が平和かつ安全に共存する『2国家解決』を支持している。『2国家解決』を実現するには、人々に『平和の配当』をもたらし、当事者間の信頼を醸成するとともに、持続的な経済開発を伴う健全なパレスティナ国家を、イスラエルとヨルダンの協力も得て樹立することが不可欠だ」と説明した。むろん、費用は概ね日本が負担する。
この構想が、誰の知恵で生み出されたか、定かではない。小泉は、「中東和平に積極協力する方策を考えろ」と指示しただけで、彼自身のアイデアだったとは思えない。指示を受けた外務省の担当課は、おそらく困惑したであろう。そもそも、彼らには「中東和平に積極協力する」などという気持ちはかけらもない。「火中の栗を拾う」もので、「日本が迂闊に手を出すなど考えたくもない」のが本音だ。困った役人が常套的に使うのが「外部の協力者」である。これも推測になるが、03年に特殊法人「国際協力事業団」から、独立行政法人「国際協力機構」に改称したJICAに、「後世に禍根を残さぬようなアイデアを考えろ」と迫ったに違いない。
「後世に禍根を残さぬ」とは、「後々、外務省が足を取られて苦労するようなものでない……」という意味である。
「平和と繁栄の回廊」とは良くも名付けたもので、名前だけは大層なものだが、中身を熟視すれば、パレスティナ、イスラエル双方に強いインパクトを与える事業に成長するとは思えない。小泉提案から18年経った今も、細々と生き続けてはいるようだが、困惑の果てに役人が絞り出した答えは、この程度のことであった。(敬称略、つづく)