始まった名古屋暮らし
幼い学生、非効率な会議
06年4月、名古屋での生活が始まった。フリーランス・ジャーナリストという肩書きを背負った上での大学教員という新たな身分。勤務先となった名古屋外国語大学は自宅から10キロほどのところにあり、ニューヨークから送った車が到着するまでの2ヵ月ほどは、数十年ぶりの電車通勤となった。
自宅の地下鉄最寄り駅から3つ目の駅で、大学のシャトルバスに乗り換える。最前列に用意された教員用の座席に座ると、耳元に学生たちが車内で話す言葉が否応なしに降りかかってくる。真っ先に気付いたのは、その会話の内容があまりに幼いことだった。自分の若い頃を思い返すと、高校時代でも話さなかったレベルなのである。
「テンキョウリツ」という言葉がしきりに聞こえるので何のことかと訝しんでいると、やがて「日本三景」という言葉が出て、「天の橋立」であることに気付かされた。問題は、それを発音している学生だけでなく、会話している数人の学生が一人として誤りに気付いていないのだ。「テンキョウリツ」の学生は、岐阜県から通っているようで、「ウチからどう行くんだろう?」と聞いているのだが、誰も答えない。
大学の教科では、タイトルは何度か変わったが、私には一番重要性が高くメインの科目との認識があり、「国際関係原論」のつもりで取り組んだ。
国際関係を形作るのはまず国家だから、「国家とは何か」から話を始める。「国家の3要素とは何か」と問うても、誰も答えない。「領土・領海と、そこに住む民、そして主権」だと話してもキョトンとしている。領海を規定するのが「国連海洋法条約」だとして、内容を詳しく丁寧に説明するのだが、それを尖閣諸島に関連づけて中国の対応を論ずる意識も見られない。「尖閣」と言っても、どこにあるかさえ知らぬ学生が大半なのだ。受講者が300人前後に及ぶ大教室での講義だったが、ここでも学生たちの基本的な知識レベルの低さに驚かされた。
世界史を動かしてきた重要事件について全くと言って良いほど知識がない。2次にわたる世界大戦の年代を知らないし、どの国同士が戦ったのかも確とは判らない。「日本はアメリカと戦争したことあるんですね」という感想を聞いて驚かされる。思わず吹き出してしまったのは、太平洋戦争の発起点となったPearl Harborについて、「どこにある?」と聞いたのに対して、「三重県」と大真面目に答えた学生がいたことだった。
国際連合という機関が、どこに本部を置いているか知らない、創設の経緯も、日本がいつ加盟したかも知らない、現在の加盟国数など知る由もない。安保理の機能や構成なども全くの白紙。新聞テレビで繁く伝えられたはずの平和維持活動についても「知らない」。
欧州連合EUによる欧州統合にも無関心。東南アジア諸国連合ASEANという機構があることも初耳という顔をしている。ASEAN諸国の全てが、第2次大戦中は日本の占領地だったという話をすると、「へぇー」とびっくりしている。
そうした学生たちに、高校で「世界史」を選択しなかったのか聞くと、大半が「習いました」と答える。それなら、基本的知識が少しはあって良かろうと思うのだが、「日本史より暗記する項目が少ないから取ったので、あまり真面目に勉強しなかった」という。基本的知識とは、そうした次元の問題ではないと思うが、この辺りが、私が出た慶應義塾とこの大学の偏差値の差なのだろうか。
「現代アメリカ事情」という教科も担当した。赴任当初はまだ5年前の出来事だから記憶に新しいと考えて、「9・11」の同時テロから話を始めようとすると、意外なほど知らない。「中学生時代のことで、新聞やテレビも見なかった」という。あれほど世界の耳目を集めた事件でも関心を持たなかったのか、重ねて問い返す無駄を悟るしかなかった。
総じて言えば、身近にあるはずの時事問題に関心が薄く、その成り行きはもとより、背景や原因、結果、近未来の見通しなどに思考が及ばない学生が大半だった。
ただ、「そう捨てたものでもない」と思われたのは、「国際経済速報」という科目だった。
発表される日本国内や世界主要国の経済指標も含め、最新の経済情勢や経済事件について解説するもので、30人くらいが選択して集まった。好奇心の強い学生たちだったのだろう。ほぼ一方的な講義だったが、よく聴いてくれたし、質問も多かった。
この年は、ホリエモンの通称で知られる堀江貴文らによる粉飾決算などのライブドア事件が発覚して話題になっていた。アメリカでは巨額の不正経理・不正取引による粉飾決算が明るみに出て01年12月に破綻、「エンロン・ショック」と呼ばれた事件があり、元会長らが5月25日に有罪判決を受けたことも引き合いに、企業の不正行為について説明した。
このライブドア事件から派生した形で、「村上ファンド事件」が起き、6月初めに代表の村上世彰が逮捕された。村上は東大法学部を出て当時の通産省に16年間勤務するうち、コーポレート・ガヴァナンスの重要性に気付き、自らファンドを立ち上げて「モノ言う株主」になった。その過程でインサイダー取引に手を出したのを東京地検特捜部に摘発されたのだった。
こうした事件の説明とともに、企業決算や金融取引の実態にも踏み込んだ。学生からは「ヘッジファンドって何ですか」などの質問が出て、それらにも丁寧に応対した。
驚かされたのは学生のレベルだけではない。「教授会」の非効率も驚嘆に値した。
この年、現代国際学部には、私の他にも日本航空で内外のホテル事業を統括する立場を経験したS、永年キャビンアテンダントを務めたK、NHK報道に長く勤めたEと、いずれもアカデミア以外、実社会から転向してきた4人の新任教授がおり、新人同士、一緒に会議に臨むことが多かったが、皆同じように教授会を苦痛に感じていた。
まず、議題のつまらなさ。多くが評議員会の決議事項で、教授会はそれを修正することもできず追認するだけなのに、その議題を延々と小田原評定する。決定する議案があっても、決議に行き着くまでの時間が信じ難いほどに長い。新参者がいきなり不満を言うのも非礼と考えて、ひたすら我慢の時を過ごすのだが、その限度も超えて、ついには、「この話、いつまで続けるのですか? この時間のかけ方は民間企業ではあり得ない」と発言してしまう。それが評定の終わりに帰結するのだった。外国人教員もかなりの数がいる。彼らが、私たちの「終了宣告」に期待するようになって、頃合いが来るとサインを送ってくるようにもなった。
さて本業のジャーナリストだが、テレビ朝日系列のメーテレが朝の情報番組に週1回、コメンテーターとしての出演枠を取ってくれたのだが、数ヵ月すると、他局からもオファーが来るようになった。初めは日本テレビ系列の中京テレビで、「名古屋にお住まいとは知りませんでした」と、まず午後のバラエティ番組に1クール出演した後、夕方ニューズのコメンテーターを週2回務めることになった。さらにフジ系列の東海テレビでも、昼前の情報番組のコメンテーターに週1回の出演枠ができた。帰国したことで講演の依頼も増えたから、まさに「大忙し」である。当初計画した4年の名古屋暮らしは、アッという間に期限を迎えることとなった。大学は、「客員教授」として残って欲しい、「研究室もそのまま使って下さい」という。
「これではアメリカに帰れない」――妻と相談の末、アメリカの永住権は放棄することにした。借りていた住居は「買って下さい」と言う家主さんの要望に従った。
これが現在に続く名古屋暮らし延長の顛末である。(敬称略、つづく)