記者からTVアンカー
新たな使命「大学教授」へ
2004年が明けて、私がテレビ朝日にいる日が短くなっているのを急速に感じ始めていた。
東京でネットワークニュースのアンカーを務めていた私が、93年に再びニューヨークに赴任したのは、世界中のニュースがいち早く集まるニューヨークを基点に、時にはその発信地に飛んで、国際的な出来事や状況・情勢を私の目で見、耳で聞き、肌で感じて、手早く伝え、解説するのが主な任務とされたからであった。英語の肩書きにすると、「Anchor-Reporter」であり、「Commentator」でもあった。
全国紙の新聞記者として16年、その最後はロサンゼルス特派員だった。取材手法的にはオーソドックスから現代的なものへ、インターネットなどはまだ気配もない時代だったが、足を使い現場に身体を運んで体験する取材とともに、「考える取材」とでも言おうか、起きている事柄の真相・背景・周辺条件などに目配り気配りして深掘りしながら、事態がどこまで発展するか、影響を広げるか、視野を拡大し奥行きを深めた記事を書くことに努めるようになっていた。
私自身は、そうした「先進的ジャーナリスト像」を自らに課していたから、活字から映像媒体に活動の場を移した時点でも、「先進的」という自負は少なからず背負っていた。
テレビ朝日とは1980年に専属出演契約を結んで25年目に入っていた。新聞社の在社期間を大きく超えたのである。この間に、24時間ニューズ・チャンネルの出現や、インターネットの出現と急速な普及で、取材手法にも大きな変化が生じた。
世の中の趨勢に目を凝らし、さまざまな人々との対話にヒントを得たり、新聞・雑誌など活字媒体を読み漁ることで取材テーマを選び出し、それに見合った取材先を探す作業に入る。分厚い電話帳や年鑑、人名録など、ケースにもよるが、かなり煩雑な手続きを経て適切と思える取材先を決めたら、その相手に電話や手紙で取材を申し込み、応じてくれれば、そこでやっとアポイントメントを取って出掛けて行く……という一連の手続き自体は、依然、ルーティンとして生きていたが、大元の取材対象の選択という時点で、インターネットなどの情報に頼るケースが多くなった。取材先の決定や選び出しにもウェブサイトが威力を発揮する。
こうした態様の変化の中で、テレビ朝日の人材にも変化が起きていた。若く、意欲的で有能な社員が取材陣に加わり、彼ら彼女らが確実に成長していた。私のような外部の人材に頼らずとも、社員スタッフの手で、取材の発起から編集・加工を経て作品に至る作業が完結するようにもなっていた。
私の「テレビ朝日人生」の晩年を示唆するように、21世紀に入って、「テレビ朝日アメリカ」という現地法人の取締役にも任命されていた。2004年という年は私が65歳を迎える年であった。当時としては「定年」がまだ60歳という企業が多かったから、会社との縁を切るのが「早すぎる」歳でもなかった。「長い間、ご苦労でした」という丁重な通告があって、3月末で専属契約を終えることが決まった。
住み慣れた個室に置いた資料の山、関連書籍や新聞の切り抜きもどっさり積まれていた。それらを整理するのに数日を要し、私の部屋はスッキリ綺麗になった。
テレビ朝日との関係が清算されても、ジャーナリストを辞めるつもりはなかった。身分としては、フリーランスになった。
自宅に帰って、書斎にしていた二つ目のベッドルームで改めて部屋の中を見回した。フリーランスになったことで、ルーティン・ワークはなくなる。世間に向け、何か伝えたいことがあっても、媒体を持たないのだから咄嗟には発信できない。今日あるようなSNSなどはまだなかった。毎月の定収入も当然なくなる。住居に5千ドルもの賃貸料を払い続けるのは無謀に思えた。11年住み慣れたユニットではあったが、引越しを決断した。
3ヵ月も経って夏が近づいてきた頃、ニューヨークタイムズに新築の賃貸アパートの広告を見つけた。
102丁目の1番街と2番街の間というから、アッパーイーストサイドの北限に近い。むしろ、110丁目から始まるハーレムに近い地域だ。とりあえず行ってみると、ドアマンもいる6階建ての中層アパートで、まさに建築工事が終わったばかり。2寝室2浴室のユニットがあるという。長年住んできた2番街47丁目のコンドミニアムは2寝室2・5浴室だが、賃料はその半分。アテンダント付きのパーキングもあって、こちらもちょうど半値という。月に5500ドル払っていたものが2250ドルで住める。
面白いことに、アパートの正面玄関から86丁目レキシントン街の地下鉄の駅までシャトルバスを運行していて、ここの住民になれば無料で利用できるという。考え直す余地もなく、ここに決めた。
現住所の家主の弁護士に電話で転居を伝える。「11年余という長い間、家賃などの滞納は一度もなかった。良いテナントでいてくれたことに感謝したい。あなたの都合でいつでも引越しをして下さい」
新居は、最上階の6階に決めた。37階という高層階にあったこれまでの部屋とは見える景色が大違いだが、セキュリティもほぼ万全で、屋内パーキングから自分の車に乗れば、マンハッタン東側を通るFDRドライブの96丁目入り口が至近なので交通の便も良い。妻と二人、永住権を取っていたから、「これで落ち着ける」という安堵があった。
ただ、仕事らしい仕事はない。年に1、2度、日本に一時帰国して、これまでお断りすることが多かった講演の仕事を受け、テレビ出演をする程度だった。講演のテーマは、この年が大統領選挙の年だったこともあって、その情勢解説を頼まれることが多かったが、国際情勢全般の動向、アメリカ経済の現況と見通し、などの依頼もあった。
そうした中で、いくつかの大学からオファーがあった。
最初に来たのが山梨県立大学。高校時代の同級生だった女性の配偶者が学長になったばかりで、特色のある教授が欲しかったようで、専任教授としての誘いを受けたが、私の方は、まだアメリカでの暮らしを辞める気になれなかった。夏休みの初めに1週間ほど甲府に行って集中講義をする「客員教授」を引き受け、国際関係論と、安全保障を講ずることになった。
それが2年目に入ると、今度は名古屋外国語大学から熱烈な誘いが来た。「現代国際学部長」が自ら招致工作にあたり、一時帰国の都度、名古屋に招かれてキャンパスを見、市内の料理屋などで接待を受けるうち、こちらも引くに引けなくなった。
2006年度、私が67歳になる年で、「専任教授として働ける4年間」の条件で契約を結んだ。
永住権保有者が長く外国に居住することについて弁護士に相談すると、「2年ごとの再入国許可証を取っておけば、4年間の日本暮らしは問題ない」という。名古屋という土地には縁もゆかりもなかった。テレビ朝日の系列局メーテレが、一時帰国のたびに呼んでくれて朝の情報番組に出演させてくれた程度だ。その縁を頼りに住居探しを始めると、局のディレクターの一人が結婚するつもりでコンドミニアムを買ったが、結婚が破談になり、「その部屋を貸したい」という。地下鉄東山線の駅から3分という至近の立地で、100平米を超すユニット、駐車場もある。「渡りに船」で借りることにした。
現在も続く名古屋暮らしは、このようにアタフタと決まったのだった。(つづく)