負の遺産「イラク侵攻」
復興へ向け国際社会が介入
「大量破壊兵器を開発・所有している」
「水面下でアルカイダと繋がっている」
「最悪の圧政・専制統治」
米大統領ジョージ・W・ブッシュが、イラクのサダム・フセインという独裁者を抹殺するために、それなりの理由を構えて始めたイラク戦争だったが、国際社会の支持は分かれていた。
冷戦期の対立国だったロシア、中国だけでなく、グローバル化が進む中、アメリカとの緊密な同盟の下、欧州統合の実を急いでいたドイツ、フランスまでが戦争を拒否していた。この分断が決定的対立にまで進化しなかったのは、ブッシュの「人懐こい笑顔」があるように、私には思えていた。
さらに言えば、ブッシュが国際社会でこれほどの抵抗に遭いながら、イラク侵攻を強行した裏には、実父41代ブッシュの恥と無念をそそぎたいという決意があったのではないかと推測していた。
父ブッシュは、90年に突如クウェートに侵攻し全土を占領したサダム・フセインの軍隊を、翌91年の湾岸戦争で追い払ったが、イラク領に入ってからは追撃をせず、フセイン体制を継続させた。アメリカの内外からは「弱虫」「意気地なし」の声が上がり、それが92年大統領選での再選を阻んだとも言われていた。12年の歳月を超えて、1期だけの大統領に終わった父の無念を晴らしたい|息子ブッシュの重い関心事であり、使命感でもあったように思われた。
そうした野望を包み込んで、専横・不合理の匂いを緩和したのが、日頃から見せる「人懐こい笑顔」だったと思えていたのである。
開戦後の戦況は、空爆と巡航ミサイルによる攻撃でイラク軍の指揮系統を早期に破壊、開戦21日後の03年4月9日には首都バグダードが陥落(サダムは逃亡)、5月1日に、サンディエゴ沖の空母リンカーンに戦闘機で着艦したブッシュが「Mission Accomplished」「イラクでの大規模な戦闘作戦は終結した」と高らかに宣言するほど順調だった。しかし、ブッシュが軍事侵攻の根拠として主張した冒頭の3点については、証拠が見つからない。国際社会は「それ見た事か」とばかりに戦闘の主役となった米英を非難した。
こうした状況に対応したのが国連安保理だった。冷戦時代や新冷戦と言われる今日のような「拒否権の応酬」ではなく、戦闘で混乱したイラクに、イラク人の統治をどう復活させるか、国際社会にどう復帰させるか、などを中心に緻密な議論を真摯に進めていた。
イラク国内では、主要戦闘終結後、大小のテロ事件が頻発し、治安が悪化していた。
8月7日、バグダードのヨルダン大使館が攻撃され19人もの死者が出たのをはじめ、同19日には、人道援助や経済再建、政治制度の確立などを目的に14日に開設されたばかりで旧カナル・ホテルにあった国連イラク支援団UNAMIの現地本部に爆弾を積んだ大型トラックが自爆突入した。同本部には2〜300人の国連やNGO職員が働いていたが、このテロ攻撃で国連事務総長特別代表で同機関の初代代表だったセルジオ・ビヘイラ・デメロはじめ22人が死亡、100人以上が重軽傷を負う大惨事となった。
首都ばかりではない。同月29日には中南部の都市ナジャフでイスラム教シーア派の聖地とされたイマーム・アリ・モスクが自動車爆弾で襲撃され、少なくとも48人が死亡、90人以上が負傷したと伝えられた。
イラクは元々シーア派イスラム教徒が住民の多数を占めていたが、サダム・フセインは少数派のスンニ派に属していた。両派は折り合いが悪く、事ごとに対立していたから、イラク戦争の勃発でスンニ派の政権が倒されれば長く日陰にあったシーア派が表舞台に登場する条件が整う。スンニ派はこれを阻止するために激越なテロ行為に出た。3月に米英軍主導の攻撃が始まった直後から、後に「イラクのアルカイダ」の最高指導者となるヨルダン人ザルカウィが率いる「唯一神・聖戦機構」がイラクに入り、バグダード市内で起きた前記2つのテロ攻撃を実行した。
こうした治安状況は10月に入っても改善せず、9日にはバグダード市内シーア派居住地区の警察署に爆弾を積んだ自動車が突入、10人以上の死者が出たほか、スペイン外交官が殺害され、12日にも、バグダード・ホテルに2台の自動車が突入を試みて近くの建物に激突、6人以上が死亡、イラク統治評議会のメンバーや米兵らが負傷した。さらに14日には、トルコ大使館が爆破された。
ここで登場したイラク統治評議会というのは、イラク人による主権回復を視野に入れ暫定統治を行わせるため、国連などの肝入りで設置された機関で、7月13日に初会合を開いていた。構成はシーア派アラブ人が過半の13人を占め、スンニ派アラブ人とクルド人が各5人、トルクメン人とキリスト教徒のアッシリア人が1人ずつの計25人。占領行政にあたっていた連合国暫定当局CPAの指示のもとで立法・行政を行い、新憲法を起草した。
ニューヨークの国連安保理は、イラク人による統治の回復が治安の安定にもつながるとの観点から、10月16日に決議1511を全会一致で採択した。
その冒頭には「イラクの主権はイラク国家にあることを強調し、イラク国民が自らの政治的将来を自由に決定し、その天然資源を管理する権利を再確認し、イラク国民による自治が実現する日が早急に訪れなければならないという決意を改めて強調するとともに、このプロセスを迅速に進める上での国際的支援、特に地域各国、イラクの近隣国および地域機関からの支援の重要性を認識し」……とした上で、「イラク国民の願望を体現する憲法の草案を作成する制憲会議の準備を行うため、憲法準備委員会を結成するとのイラク統治評議会の決定を歓迎するとともに、このプロセスを迅速に完了するよう統治委員会に求める」との文言が続いた。
米英軍などの武力行使で痛み切ったイラク国内の統治を、可能な限り速やかにイラク人の下に返し、そこから治安の回復、経済の再生、国内諸制度と秩序の復興に結びつける|米英など多国籍軍は治安維持を最大任務とし、それもイラク代表政府の発足までに限定する|国連は役割を強化し、国際社会は総力を上げてこれに協力する|との願いが詰まった決議であった。
すでに述べた通り、この時期、日本は安保理メンバーに選出されておらず、日本代表部は安保理での議論や理事国の行動を外側から注視するしかない立場だったが、小泉政権や本省から強い関心が向けられ、代表部員らも、その意向に従って、ともすると困難で忍耐を必要とする任務をよくこなしていた。
その反映として、この決議が採択されると、直ちに外務大臣川口順子の談話を発表した。
「わが国は、イラクの将来についての明確な展望をイラク国民に示し、国連の関与を得つつ国際社会が団結してイラクの復興および安定確保に取り組むことを確認するものとして、この決議の採択を歓迎し、米国をはじめとする安保理理事国のこれまでの努力を評価する……イラクの復興および安定確保には、幅広い国際社会の協調が不可欠である。わが国としては、15日、イラクの復興に対する当面の支援として総額15億ドルの無償資金の供与を発表したところであり、イラクの再建のために引き続き積極的かつ主体的に取り組んでいく方針である」
非理事国がこのような声明を出すのは異例のことである。ちなみに、この川口は私にとって中学・高校で1年後輩にあたる。彼女が中学に入った年、私は2年生ながら生物研究会のキャプテンだった。そこに旧姓土田順子と名乗った聡明な女子生徒が入部してきたのであった。(敬称略、つづく)