世界第2の規模、被害額60億ドル
北米史上最大の「大停電」
ニューヨークに長く住んでいる人と話していると、「大停電」の話が出ることがある。
記録を辿ると、20世紀中に1965年と77年の2度あった。
65年の大停電は、カナダ・オンタリオ州からメイン州を除くニューイングランド5州とニューヨーク、ニュージャージー、ペンシルヴェニア州に及ぶ20万7千平方キロの地域で3千万人を超える人々に被害が及んだ。
冬には早い寒波が襲来した11月9日、火曜日の夕方のことで、暖房などの電力使用が急増、いわゆるoverload=需要過剰現象で、ナイアガラ地域のカナダの発電所が止まり、そこから南に伸びる送電網が機能停止状態となった。各地の発電所が相次いで止まり、停電は約12時間続いた。
しばらく経ってから、ある医師がニューヨークの出生率が大幅に上昇したと言い出し、ニューヨーク・タイムズも停電がもたらした「ベビーブーム」と報じたが、後の調査で、停電のために出生率が上がったとする特異な数字は出ていなかったことが明らかになった。
77年は7月13日にニューヨーク市と周辺で起きた。夜の9時半過ぎに始まり、翌朝の7時ごろまで続き、約900万人に被害を及ぼした。
直接の原因はハドソン川に面した変電所が落雷被害を受けたことだったが、ほぼ同時に落雷のあった送電施設で、送電線にかかる負荷軽減のため職員がスイッチを操作したが、その順番を間違えたためにシステムが停止してしまった。人的ミスである。
この停電で市内2つの空港が閉鎖したほか、自動車道路のトンネルも換気不足のために通行止めとなり、地下鉄では約4千人の乗客が暑さのために避難を強いられる事態となった。また、暑さに耐えかねた市民の多くが街頭に繰り出したことで暴動が起き、窃盗・略奪や放火などの犯罪も多発した。襲撃されて被害にあった店舗は1616に及び、放火は1037件、それによる逮捕者は3776人に上ったと記録されている。被害額は3億ドルを超えるとされたが、現在の通貨価値に換算すると、14億7千万ドルにあたるという。停電よりも暴動の被害が深刻だった。
そんな話を耳にしながら身近には感じていなかったが、03年8月14日にそれは突然の現実として私たちに降りかかってきた。
木曜日の夕方だった。日中の最高気温が31度Cに達した暑い日で、午後4時を過ぎていた。オフィスでは「夕飯どうする?」などという会話が飛び交おうとする時分に電気が消えた。その時点ではわからなかったが、停電はカナダ・オンタリオからミシガン、オハイオ、ペンシルヴェニア、ニューヨーク、ニュージャージー、コネチカット、ニューハンプシャー州という広大な地域に及び、その面積は65年の大停電を凌いで、99年にブラジル南部で起きた停電に次ぐ世界第2の規模とされた。
被害にあった人々はカナダで1千万人、アメリカで4千5百万人に上り、経済的被害は発生直後の数時間だけでも、多くの欠航便を出した航空会社や終業前の取引が続いていた証券取引所などを直撃したために60億ドルと見積もられた。今の通貨価値では100億ドルを軽く超えるであろう。
停電で仕事ができなくなった人々は外に出るしかない。ニューヨーク市はもちろん、デトロイト、クリーブランド、トロント、オタワなどの大都市では、ほとんどの公共交通機関が停まったため、行き場を失った人たちが街路に滞留した。自動車専用道路も歩道となり、人による渋滞が発生、公園や路上にも人が溢れたが、77年のような暴動は起きなかった。
daylight saving timeで日没時刻は遅かったが、私のいたテレビ朝日では、アメリカ法人社長のNが、オフィスのどこにも明かりを灯すロウソクがないのに気づいた。
「家に戻って取ってくる」と出て行った。ミドタウンのアパートだったから、オフィスから歩ける距離。「遅いな」と思っているうちに1時間以上経って帰ってきた。
「19階まで上り下りするのが、これほど辛いとは思わなかった」――フーフー荒い息をしながら呟いた。19階でこれでは、37階が棲み家の私はとても無理だ。帰宅を諦め、バッテリーで動いてくれているパソコンと睨めっこしながら、停電の成り行きや国際ニュースに注目を続けた。電話は生きていたので妻にかけると、「冷蔵庫は絶対に開けないようにしている」と健気な対応策を答えた。
午後6時ごろには、ニューヨーク市の一部地域で電気が復旧したとのニュースが流れ、午後8時には地下鉄が一部路線で運行を再開したとも伝えられたが、ミッドタウンは暗黒のままで、地下鉄はもちろん、アムトラックなどの鉄道も動かなかった。
空を見上げると、普段は見えることのない天の川や馴染みの星座のほか、周回している人工衛星の軌跡が裸眼でも確認できた。マンハッタンで星空など見上げたことがない。これが初体験だった。
空腹を感じても、オフィスに置いてある非常食の多くは熱湯か電子レンジによる加工が必要で、停電では湯も沸かせないし、電子レンジも動かない。カンパンやビスケットを水で流し込むしか方法がない。不自由に苦情を言いながら事態の好転を待ったが、日付が変わっても電気はつかない。「念のため」、のつもりで、私の住むコンドミニアムのドアマンに電話をかけてみた。
「エレベーターは動いていないね」と聞くと、「フレイト用の1台だけは動いています」の答え。「それじゃ、すぐ帰る」――。
有難いことに、自家発電が一部機能していたのだった。ビルの玄関を入ろうとすると、「Well come back」と馴染みのドアマンが開けてくれる。フレイト・エレベーターの場所まで案内して「Good night, sir」――何の支障もなく部屋のある37階まで登り着いた。「これならもっと早く帰って来るのだった」。
我が家の電気が戻ったのは翌日の夕方近く、ほぼ丸1日の停電だった。ニューヨーク市全域が復旧するまでには翌々16日までかかった。
停電の発端は、オハイオ州アクロンにあった電力会社ファーストエナジーの指令室で早期警報装置が誤作動したことだった。よくあるfalse alarmで、本来なら単純に送電再開の手順を踏むべきだったが、現場にいた職員はそれをしなかった。運が悪い時には不幸が重なるもので、オハイオ州には強風が吹いており、大木の枝が送電線に落下して3つの主要電線路にも電気が流れなくなった。まずミシガンへの送電が止まり、オハイオに広がり、停電による需要低下で発電施設が次々運転を停止、そうした連鎖反応がアメリカ北東部一帯に広がって大停電に発展したのだった。公式記録によれば、265の発電施設で508基の発電機が止まったとされている。
ニューヨーク州内では、同日午後4時10分に350万キロワットの電力を送れる能力があり、287万キロワットの電力が流れていたのが、30分後までにカナダ・オンタリオから、ミシガン、オハイオ、ニュージャージー、ニューヨーク州の各一部に停電が広がったことで送電量は57万キロワットまで、80%も落ち込んだ。
アメリカとカナダ政府は合同調査機関を設けたが、11月19日、大停電の発端となっ
たファーストエナジー社を罰しないと結論した。(敬称略、つづく)