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学びの時代からジャーナリストへ
そんなわけで就職先回りなどしている暇もない。気がついた時には10月1日の就職試験解禁日を律儀に守っていたマスメディアだけとなった。目を瞑ってこれと決めたような形で読売新聞を受け、途方もない数の志願者の中から東京本社編集局採用というエリートの職にありついたのだった。切り札は英語力だった。
役人はもとより、どこの業界でも「エリート」とされる特別な職が用意されていた時代だった。全国紙各社は、その一握りのエリートを社内研修後に地方の県庁所在地の支局に分散派遣して、3〜5年の記者修行を課していた。私は福島支局に配属されたのだが、赴任の旅費は「新兵」には不釣り合いと思える「特別2等(今のグリーン車)」という待遇だった。
入社したのは37=1962年。福島支局に2年、東京本社運動部に1年、地方部に1年半、社会部に9年いて50=1975年9月にロサンゼルス支局長となった。


この間、39=1964年の東京五輪を運動部記者として取材したほか、45=1970年の大阪万国博、47=1972年の札幌冬季五輪は社会部の遊軍記者として関わった。世界を驚かせた高度経済成長の庭先にいた時期、敗戦の焦土から立ち上り、新しい平和日本として復興した姿を世界に見てもらう「3大国家プロジェクト」で、その全てを取材者として至近で見る幸運に恵まれた。
東京五輪では、開会式で外国記者の反応を記事にし、競技はセイリングを任され、ボートとカヌーの助手も務めた。大阪万博と札幌五輪では、1面の連載記事を書いたのをはじめ、さまざまな場面を精力的にリポートした。敗戦前後の厳しい生活を体験した身には、20年前後の歳月でよくもここまで復興したと、日本人の勤勉さに誇りを感じたものだった。事実、あの頃の日本人は本当によく働いた。東京五輪の4年後には、当時の尺度とされたGNP(国民総生産)でドイツを凌ぎ、アメリカに次ぐ世界第2位となる。
社会部に転じた直後の41=1966年6月には、読売新聞がビートルズを招いて武道館コンサートを主催し、ここでも英語力を買われて、彼らの東京滞在中、同じホテルの同じフロアに部屋をとって、「見張り役」を命じられた。
私の音楽への興味は8割がクラシック(うち6割はオペラ)、2割がジャズで、ビートルズへの関心は高くなかったが、彼らと短い時間の立ち話をし、演奏する音楽を聞いて感ずるものが多かった。初めてビートルズの音を間近に聴くコンサートは、阿鼻叫喚とも言える女性ファンの絶叫の中とはいえ、快感を呼び覚ます楽曲に感動している自分がいた。メロディもリズムも歌詞も、高い音楽性を感じた。
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日本の経済成長が進むにつれて「国際化」という言葉が常用されるようになり、それと並行して私の取材範囲も国内から国際社会へと広がっていった。社会部に籍を置きながら欧米などへの出張が増え、やがて外報部に移動してLA特派員となった。
赴任の翌年早々、グアテマラ地震の現地取材中に「帰れ」の社命を受け、連邦上院の多国籍企業小委員会が告発した「ロッキード事件」に関わることになった。ロ社のワイドボディ旅客機の全日空への売り込みに絡む賄賂事件で、田中角栄が逮捕起訴され、「首相の犯罪」と呼ばれた。その捜査の前段で、ロ社副会長コーチャンに対する「嘱託尋問」という初耳の手続きがLAの法廷で行われ、密室の中の尋問を苦労して取材し記事にした。田中逮捕の一報を受けたのは、モントリオール五輪に出張中のことだった。取材を通じて得た私の感触では、ロ社の対日売り込みの本命は、旅客機ではなく対潜哨戒機P3―Cだったが、日本の検察の捜査は、そこまで踏み込めなかった。
一方、当時のLAには多くの日本企業が米国市場進出の橋頭堡を築いていた。「経済記者」になってその活動ぶりをリポートする一方、火星探査のヴァイキング計画の管理本部がLA郊外のカリフォルニア工科大学に置かれていたことから、「科学記者」にも変身して、人類が初めて見る火星表面の実景を速報するなど、私自身もよく働いた時期だった。
そして新聞記者生活16年を目前にした53=1978年2月に新聞社を辞めた。辞めた後もLAでジャーナリズムに携わり、55=1980年秋にテレビ朝日と専属契約を結んでニューヨークに転居、8年暮らす。
NYを起点に、海外にも広く足を延ばして、国際社会の出来事や情勢を生の映像と共に伝える役回りだったが、初の海外出張がポーランドだった。
前年からレフ・ヴァウェンサという電気技師出身の労組指導者が、官製労組が当たり前の東欧社会主義国で自主管理の労働組合設立を主張してストライキを打つなど、政府との対決に立ち上がっていた。監視が厳しい中での取材だったが、単独会見に応じたヴァウェンサは意気軒昂だったし、自由を奪う統制の害を率直に訴える市民も少なくなかった。現地からの生放送は国営テレビのスタジオを借りて行ったので、淡々と取材の結果を伝えるだけだったが、NYに戻った後、『社会主義崩壊の萌芽を見た』というリポートを書いた。しかし社会主義の統治がなくなるまでにはさらに8年の歳月が必要としたのだった。(次ページへ続く)
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昭和の終わりを迎えたのは東京だった。63=1988年9月末にテレビ局の要請で帰国したからだ。『内田忠男モーニングショー』という、何とも不釣り合いに思える番組を任され、その当初から昭和天皇の重体が伝えられていた。翌年が明けて早々、天皇崩御。バブル景気が最盛の中で、昭和は64年の松飾りとともに終わり、「平成」という時代が始まった。
その最初の年、1989年は、欧州で目覚ましい変革の起きた年だった。東欧諸国が雪崩を打って社会主義の統治に見切りをつけ、西側の民主主義と市場重視の資本主義に加わってきた。その変わり目に、日本はバブルの最高潮に酔い痴れ、リクルート事件や東京佐川急便事件など様々なスキャンダルが起きていた。海外では、イラクのクウェート侵攻に伴う湾岸戦争も起きて、定時番組とは別の報道特別番組の司会に起用されるケースも増えた。そうした状況から、モーニングショーを担当して2年半後に、夕方のネットワークニューズのアンカーに異動、さらに2年後の1993年には、再びNY駐在キャスターとしてマンハッタンに戻ることになった。それから13年、マンハッタンで暮らした。私の米国生活は13年ずつ2度、26年間だった。
1989年の東欧革命で冷戦が終わり、政治経済の理念が自由民主主義と市場資本主義に統一されたことで、国際社会は一気にグローバル化に突き進んで行った。2度目のNYで、国際連合本部に足を踏み入れる機会が多くなった。
冷戦下では、ソ連の拒否権発動が重なり、機能不全に陥っていた安保理が本来の使命を取り戻したように見えたからだ。第2次大戦の戦勝国5ヵ国だけに拒否権を与える不条理に変わりはなかったが、自衛目的以外に武力の行使を禁じる国連創設時の目標が再び重要視されていた。事実、90年5月から93年5月までの3年間、拒否権の発動は1件もなかった。2001年9月の同時多発テロに至るまでの間、国連は束の間ではあったが、本来の機能を果たそうとしていた。グローバリズムが真骨頂を発揮した時期だった。
だが、人類の理想とも思えたグローバリズムは長くは続かなかった。その原因を辿ると、皮肉なことにグローバリズムが目指した「自由」の実現で、所得格差が急速に広がったことを挙げなければならない。
自由な競争を前提とする市場経済が広がると共に、インターネットの普及に伴う金融取引のデジタル化が急速に進み、巨額の資金が国境を超えてリアルタイムで動き回るようになる。その競争で勝利を得たものは途方もない利益を手にし、敗者との間には乗り越えられない格差を生じた。企業間でも、競争の激化に対応するコスト削減のために低賃金の労働力を求めて生産拠点を海外に移転する風潮が広がった。その結果、先進国の国内産業は空洞化、多くの失業者を生み、国内の貧富の差が拡大しただけでなく、国家間の格差も拡大した。
この結果、社会や政治に不安定が生じ、グローバル化への反発が広がり、そこから自国第一主義や保護貿易や移民規制を掲げるポピュリズム的な政治勢力が台頭した。
究極として、ドナルド・トランプなどという不動産取引の損得勘定で政策を決める大統領が、高い理想を掲げてきたアメリカに登場する。米国第一主義というあからさまな国家エゴをスローガンにすれば、国際社会の融和が壊されるのは必然である。
グローバリズムの退潮と機を一にして、国連安保理の様相も冷戦時代に逆戻りした。より悪化したと言うべきかもしれない。拒否権が、戦争や武力行使といった公然たる違法行為を合法化し、残虐で広範囲の殺戮を実行するために日常的に使われるようになった。
国際社会の現状は、「倫理道徳の喪失」と言うに尽きる。グローバル化の中で国連が掲げたSDGs=持続的開発目標など、いまや念仏に過ぎない。(次ページへ続く)