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昭和100年|80年の体験から見た社会の変貌 

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昭和100年
80年の体験から見た社会の変貌
内田 忠男(国際ジャーナリスト)

2025年12月19日号掲載|10

昭和100年が終わろうとしている。初めの20年は戦争の連続で、最後は完膚なきまでに叩かれ国土も焼き尽くされて建国以来の「敗戦」を強いられた。その後の80年は焦土からの復興に始まって、世界を驚愕させた経済成長を実現し、一時は『ジャパン・アズ・ナンバーワン』ともてはやされた挙句、はしゃぎすぎたバブル崩壊のおかげで『失われた30年』を経験し、今日に至っている。この100年について、私の人生を振り返りながら、その要所で感じたことを述べてみたい。長い話になる。御用とお急ぎで無い方はお付き合いを賜りたい。(文中敬称略)

TIME表紙
「タイム」誌1928年11月19日号表紙を飾った昭和天皇 (Photo: Public Domain)
昭和天皇(右)とマッカーサー元帥
駐日アメリカ大使館で行われた会見で昭和天皇(右)とマッカーサー元帥 (Photo: Public Domain)

私は昭和14年=1939年生まれだから、物心ついて「人間」になってからでも80年余を生きてきた。幼少の頃、明治維新と言われると、とてつもない昔のことと感じていたが、維新から敗戦までは78年、敗戦から今日までが80年ということからすると、維新はそれほど昔のことではなかったのだ。

幼い頃の思い出と言えば、やはり戦争であろう。私は神奈川県の葉山に住んでいた。B29による大規模空襲を直接受けることはなく、東京方面に向かう大編隊を見上げるだけだったが、一人で広い畑地の小道を歩いていたある昼下がり、空母艦載機が単機頭上に飛んできたことがあった。一面の畑だから身を隠す場所もないが逃げようと走り出した。すると敵機は超低空まで降りてきて、私が走る道の右側30メートルくらいのところに機銃を打ち込んできた。パラパラと乾いた音がした恐怖の記憶が今も残っている。数十発打ち込んで、飛び去るかと思ったら反転してまた頭上に帰ってきた。「もうダメかもしれない」と覚悟して見上げた時、敵機の窓に若い米兵が笑っているのを見た。幼児だった私にイタズラしたのだろうが、とても恐ろしい空襲体験だった。

他に戦中の思い出と言えば、いつも空腹だったこと。コメの配給など滅多になく、アワ、ヒエなどの雑穀なら良い方で、コンニャクの粉が配給された時には母親もどう料理すべきか困惑していた。町を出て農村部に買い出しに行く母に、小さなリュックを背負ってついて行ったこともあるが、母が差し出す上等な着物と交換に数本のサツマイモを得るのが精々だった。食糧難は戦争が終わった後も続き、稀に米軍の携帯食などが配給された時には、「敵はなんと上等なものを食って戦争していたことか」と羨んだものだった。

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それでも我が国は復興に立ち上がった。小学4年生になりたての頃、父に連れられて「横浜貿易博覧会」を見に行った。横浜市の主催で、終戦から4年に満たない昭和24=1949年(以下年号の昭和は略)3月から6月まで、野毛山会場と反町会場の2ヵ所で、焼け野原にEXPOを思わせる大がかりな仕掛けで開かれた。

野毛山会場は、野外劇場や天文館、水中レビューに児童遊園地など娯楽色が強かったが、科学発明館というところで「高柳式テレビジョン」が公開され、新聞紙くらいの画面に投射される映像に見入ったのを憶えている。

反町会場は、初めて見る人工冷凍のアイススケートリンクがあったほかは、企業単独や業種単位のブースが10くらい並ぶ産業別特設館、貿易館、産業館など、当時の日本の最新工業製品や輸出品の展示が主体で、小学生の私にも興味深いものが数多くあった。

「今の日本にも世界に売れるものもあるんだ」と、大いに意を強くしたものだった。横浜市はこの博覧会が大赤字で、後の財政運営に苦労したと後になって聞かされたが、開催に踏み切った勇気と、先を見る時代感覚には感心する。
話は前後するが、私は敗戦翌年に小学生になった。学校教育法がまだできておらず、戦中のままの「国民学校初等科」で「1年男2組」に配属された。小学1年生でも男女別学だったのだ。2年生になる時、組み替えをして男女共学になり、校名も「小学校」に変わった。

5年生からは東京に住まいを移した。教育ママだった母は、私の転校先を目の色変えて探し回り、当時の東京高等師範学校附属に転入を画策したが果たせず、東京大学に近い本郷西片町の文京区立誠之小学校を見つけてきた。

学制施行と同時に創立した歴史の古い学校で、学区外から通う越境児童が多く1クラス67人という超スシ詰めだった。私は自宅のあった駒込駅近くの停留所から、飛鳥山から東大前を通り日本橋に至る19番という都電に乗って通学した。転入した25=1950年が創立75周年にあたり、10月30日だったか、創立記念日に盛大な記念式典が行われ、驚いたことに式辞を読む在校生に私が指名された。転入して1年も経っていないし、「なぜ6年生でないの?」と不思議に思ったが、担任教諭の命令だから従うほかない。巻紙に筆で書かれた式辞を読み上げたのだった。翌年の卒業式も「総代」だった。

中学受験では、母親が小学校への編入を図った「附属」に合格した。校名は「東京教育大学附属」に変わっていた。今は「筑波大学附属」となって、秋篠宮悠仁親王が高校に通って話題になった。

上着は縁に蛇腹がついてフックでとめる、かつての海軍兵学校に似た制服で、夏服では背抜きの上着に純白のパンツを穿かされた。まだ戦前・戦中の名残りが色濃く残っていた。既に女子生徒も入っていたが、私がいた1組は男子だけのクラス。校内で出会う上級生には必ず帽子を取って挨拶をする、その頭は坊主刈り。入学して間もなく、端艇部が開成中学とのボートレース(定期戦)に臨む前日には「推戴式」なるものが開かれた。出場選手が壇上に並び、全校生が校歌と応援歌を歌って健闘を促す儀式だった。校内の掲示板には難しい文語体の「檄(選手を励まし必勝を期す内容)」が張り出されていた。

礼節には厳しかったが、自由と規律の共存・共益を教え込まれた。入学直後の初のホームルームで、担任教官から「noblesse oblige(高貴なるものの義務)」を教えられ、「へぇー」と感心した。

この担任教官は、学習院で皇太子を教えた経験を持ち、しばしば「殿下がこうされた、殿下がこう言われた」と話題にした。どういうわけか、教官の「デンカ」という口癖が、いつの間にか私のニックネームにされ、通学の電車内でも「デンカ」と呼ばれて周囲の乗客から不思議そうに覗き込まれて恥ずかしい思いをしたこともある。

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中学に入学した27=1952年の4月末に、連合国による6年半余の占領統治が終わり、日本は主権を回復した。朝鮮半島では米軍を主力とする国連軍が北朝鮮、中共軍と戦っていた。この戦争の特需で、日本の産業界は再建・成長への踏み台を得たのだった。

中高の6年間は、良き友人にも恵まれ、楽しく充実した時間だった。今この歳になって付き合いのある友人の多くは「附属」と、経済学部に学んだ慶應義塾の同期生である。学閥云々を言うつもりはないが、多感な青春期は、やはり良い学び舎に行くべきだと実感している。

33=1958年に始まった大学時代は、さまざまなアルバイトを通じて社会の実相も見た。家庭教師に始まり、バンドマン(コントラバス奏者)、百貨店の売り子、酒問屋の季節労働者(要するに重いものを運ばされた)、レナウンの営業など……3年生の後半からは、ライセンスをとってインバウンド客(大半は米国人)を案内する英語の通訳ガイドが本業のようになった。行ったこともない土地に行って、付け焼刃の知識で知ったかぶりの案内をすることもあったが、客たちには好評で、所属していた外資系の旅行会社からは、卒業後も社員になるようしつこく迫られた。(次ページへ続く)

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