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よみタイムVol.69 7月20日発行号

 [其の11]


カネを超えた証券マン、寺沢芳男
「儲けても損してもタダの数字」
爽やかな人間関係エッセイで


今年春、NYを再訪した寺沢芳男氏と筆者

 「毎日、証券取り引き所で、ゼロの数が数えきれないほどのおカネを瞬時に動かして右往左往する人たちを見るけれど、みんな目を剥き出してすごい形相なんですよ」
 「おカネを儲ければ幸せになると普通は思われているけれど、ここでは物凄い額のおカネを儲けても損してもただの数字に過ぎない。おカネとは何のためにあるのかと、やりきれない気持ちになることがあるんですよ」。
 ウォールストリートのトップビジネスマンと禅僧との対話という企画で、当時米国野村證券社長の寺沢芳男氏と大菩薩禅堂住職の嶋野栄道老師の対談を実現した時、寺
沢さんは、すがるように嶋野老師の目をみつめて呟くように言った。
 1956年に早稲田大学を卒業した寺沢さんは、翌年フルブライト留学生に合格、ワシントンの大学を卒業後、そのままニューヨークの米国野村証券の社員になった。
72年には社長。88年にはワシントンの国際機関MIGAの初代長官、92年には参議院議員に当選して、羽田内閣の経済企画庁長官に就任した。
 早稲田大学のニューヨーク同窓会である稲門会の会長も長く務め、パーティーに角帽姿で出席するなど、人を楽しませることも上手だった。
 日本人で初のニューヨーク証券取引所メンバーになった人が米国野村証券社長だというので、インタビューに伺ったのが82年。初めて個人的に会った寺沢さんの印象は「ソフトでいながら強烈に人を引き込むエネルギーの持ち主」で株の売り買いという業種のイメージとはほど遠く、デリケートな文学壮年という感じ。それですぐ当時私が編集していたOCSニュースに「ウォールストリート日記」というエッセイのコラムの執筆をお願いした。
 コラムニストとしての寺沢さんは、証券会社の社長という本業を時に忘れさせるほど活発で、厳しいビジネスの間に隙間風のように吹く爽やかな人間関係や、仕事に隠れた人生観を観察したしゃれたエッセイを書いた。出版された本の中には英訳されるものもあった。
 「ぼくの仕事は証券、つまり株屋でしょ。初めのころは、営業に行くと、ああ、株屋さんですか、こっちからにして、なんていわれる扱いを受けてね」と、寺沢さんは遠い昔を懐かしみ、大企業の仲間入りをしてそのトップに立っている現在の自分が腑に落ちないというような様子のことがあった。
 もとろん、この業界のトップに立つ寺沢さんが、そんなことを言うのは弱気ではなく、彼のデリケートな感性が働いて、そのカネの渦の中にどっぷり浸る自分の背中をひっぱっていたのだろう。しかし、彼の金融界で磨かれた広い視野と洞察力、判断力、決断力は、やわらかな感性に弾力を与え、いつのまにか周囲をリードしてきた。ずば抜けたキャリアや失敗のない、安定したライフスタイルがそれを証明している。
 このころはまだベルリンの壁が崩れる前の不安な80年代だった。ベルリンの壁とソ連が崩壊した89年以後を、私は世界は地獄への道をもう一歩踏み進んだと思っている。
 日本の若者たちが伝統的に通るひとつのチェックポイントは、ちょっとした左傾文化だった。学生運動、左翼文学、哲学、芸術など現状を批判する反体制文化は若者の脳と細胞を刺激し、一時的にせよ、忘れられない異次元侵入の恍惚感を与えた。それがあればこそ、実社会に出てから資本主義の本道を進めたのではないかと私は思っている。
 たとえ観念的であっても共産主義社会や社会主義社会があった時代にくらべ、現在の世界はなんのアンチテーゼもなく、ただカネさえ儲ければいい、手段はどうでもいいと思っている人だらけになった。政治家も学者も、弱者の救済や環境問題は、儲からないなら経済成長の足を引っ張るから後回しにするしかないと公言する時代の到来だ。
 「カネに目がくらんで」というのは悪い意味に使われた。カネより価値のあるもの、カネで買えないもの、カネのために失うもののあることは常識だった。今はひたすらカネ一筋になっている。
 「経済とは縦糸と横糸を意味していて、すべてが全体にくまなく行き渡るという意味なんです」と、大菩薩禅堂住職、嶋野栄道老師に教えられた。不平等は当然。カネ儲けイコール経済と思っている現代の人間は、この言葉を考えた福沢諭吉先生にも叱られそうだ。
 キャッツキルの山中にある禅寺、大菩薩禅堂金剛寺の境内に、大晦日の夜に打たれるような鐘楼がある。本堂の脇の小高い山腹にはりついたように建っている。
 嶋野老師によると、76年金剛寺開山の折りこれを寄進したのは、当時野村証券社長だった北裏喜一郎氏だそうだ。開山式に出席するために来米した北裏氏夫妻に、当時米国野村証券社長だった寺沢芳男氏も随行したという。
 資本主義の本家のような所でトップに立った人の陰陽を備えた厚みのある心の内を、いまさらながら思い遣っている。