|
|
よみタイムVol.47 8月25日発行号
|
[其の2] 映画作家 ジャック・スミス
|
メモリアルサービスの時に使われたジャック・スミスのポートレート
|
廃物から美を引き出す
無人のロフトが仕事場
寒い日だった。乾燥しきった北風が吹いて、移民たちに踏み込まれて滑らかになったイーストビレッジの路上に、紙屑などが舞い上がっていた。
話題の映画作家ジャック・スミスがアベニューAの我が家を訪れたのは、そんな日だった。
ジャックは、大切そうに持って来たお土産を私にくれた。
錆びた小さな鉄の塊とちょっと破れた小さなパーティー用ハンドバッグ。鉄の塊には小さな穴があって、ここにひもを通せば素敵なペンダントになるという。ハンドバッグも、繕えば使えるという。2つとも私のために拾って来てくれたのだそうだ。
うれしかった。ペンダントは首に下げるにはちょっと重いが、あの毒気と妖気で見る人を魅了してやまない映画作家ジャック・スミスのプレゼントなのだ。
中西部で生まれたが、アラビアンナイトに憧れ、アラビアを目指して出帆。でも、途中ニューヨークに留まってしまったというジャックは、ここでアラビアへの憧憬を
映像に昇華させ始めた。
物憂く限り無く退廃的なセット、ライティング、カメラワーク。そしてまたこの上なく官能的なメーキャップと衣装に包まれた役者たち(ジャックもそのひとり)のアナキーなしぐさや台詞。一度彼の映画を見た人たちは、決して忘れることのできない衝撃を受けた。
1964年、ブラッセルで開かれた実験映画祭で彼の映画が上映されるや、まだ保守的だったヨーロッパ社会の抵抗を受けて、一大スキャンダルとなった。
「とても素晴らしいセットを見つけたんだ」
ぶつ切りのビーフにほうれん草入りの怪し気なスキヤキをつっつきながら、彼独特のか細い消え入るような声で、ジャックが言った。
「すばらしい南国の風景をね」
え、こんな真冬に? みんなは訝しそうな視線を彼に向けた。
「ほんとだ」と、彼は、悲しそうに言う。
ジャックの案内で、みんなでその場所を見に行くことにした。
晴れた空に風が冷たかった。みんなフードを目深にかぶり、肩を縮めて歩いた。
ビルをとり壊したような一角があった。戦火にやられたかのようにコンクリートの残骸がむき出しになっている。隙間から雑草がか弱気に茎をのばしている。汚い壁が奥を遮っていた。周囲には金網がはり巡らされている。それが破れ10センチほどの穴があいていた。
ジャックは足を止め、その穴から中を覗いている。指でフレームの形を作りながら。横顔が恍惚としていた。
彼のあとから、私たちは次々に彼のまねをして中を覗き見た。
コンクリートの岩に緑の草がかぶさり、強い斜陽に草の緑が輝いている。バックの壁に映る草の影がさわやかな夏の雰囲気をかもしていた。
これが、ジャックの映画の秘密なのだ。北風に曝されながら、私たちはいつまでも代わる代わるその穴をのぞいた。
まだ居住禁止だったSOHO地区の無人のロフトが、ジャックの映画制作の仕事場だった。壊れかかったような入り口を入るといきなり華麗なインテリアに驚かされる。モスクのように壁一面に施された細かな僧職、所々には祭壇のような飾りの集中した所がある。
それらは薄いオレンジ系の光のなかに浸り、いくつもの薄く長い影を背負って立つジャックは、司祭のように見えた。
カメラを向けると、「少しは、ぼくのために残しておいて」と頼むか細い声がした。彼が自分の撮影のために精魂こめて作ったセットであることに気付いて、私はカメラをしまった。
よく見ると、この美しいセットを構成している素材は、商品の空き箱、空き缶、看板、壊れた人形、玩具、ちらし、雑誌、その他さまざまな都会のジャンクだった。ニューヨークのごみが変身したかずかずのオブジェ。ジャックはニューヨークの廃物から美を引き出す天才だった。この時、彼に贈られた品の価値が、急に改めて実感された。
寺山修司さんが「ジャックは今どうしているかな」と、日本から津軽なまりで電話をしてきたのは、亡くなる2か月前だった。「今は映画でなく、アラビアンナイトの一人芝居をやっているようよ」と答えると、満足気に「そう」とだけ言った。この詩人の心に最後まで残ったジャック・スミスも、詩人より4年遅れてエイズのため57歳でこの世を去った。
(次回は映画作家・ジョナス・メカス)
|
|
|
|