1957年、ワシントンスクエアで。反戦ミュージカル「ヘア」を見にいっていたころの寺山さん(中央)と九条今日子さん(右)と筆者
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劇団「天井桟敷」主宰と馬主
二足のワラジで東奔西走
「ね、ぼく、何で食べてると思う?」
カーネギーホールの前の通りを歩きながら、寺山修司さんは私に問いかけた。流行りの踵の高いサンダルを履いて、高くなった背を申し訳なさそうにまるめて歩きながら。
「そうね。なにかな」
1970年にラ・ママ劇場で、現地スタッフによる『毛皮のマリー』を演出上演してから、寺山さんのニューヨークでの仕事も多くなっていた。
日本では、小劇場運動の原動力。しかし、主宰する劇団「天井桟敷」の大勢のスタッフを養ったり、経費を考えたら、それで食べられるかどうか、わからない。著作活
動かなあ。
「競馬の予想なのよ」
寺山さんは、きっぱりと言った。毎日、馬を見て、競馬新聞にコラムを書いているという。締めきりは午後5時。電話送稿だという。馬は寺山さんによく似合うと思った。
いつから知り合ったか分らないくらい古いつき合いなのだが、そのころは、年に一度ほどニューヨークを訪れる寺山さんと、奥さんで劇団マネジャーの九条今日子さんも交えて楽しく過ごすだけで、私的な生活はよく知らなかった。彼が競争馬の馬主だったことも、体がそんなに悪かったことも。でも、ニューヨークに来たときはいつでも「七夕みたいだね」と言いつつ、まず私に電話をくれた。
「今回は、ケンタッキー・ダービーに行く」
あれは1976年、新作の映画『田園に死す』の上映と講演のために招かれたというのに、彼はこのダービーに、初めから心を奪われているらしかった。
ケンタッキーに飛んだ寺山さんからは、ニューヨークにいる私に、頻繁に電話がかかった。 「宿泊先の家は、門を入ってから車で1時間も走ってやっと付いたこと」「夕方、家の料理人が家人にパンの好みを尋ね、朝、焼き立てのパンを出すこと」
「自家用機でニューヨークまで行って買って来たニューヨーク・タイムス紙を女主人がゆったりと読んでいること」
競馬場からは、もっと頻繁に電話がかかった。 「ダンサーズ・イメージという馬を買ったんだ。よく分からないので名前で買ったんだけど、いい名前でしょう。いい名前だなあ」
「ダンサーズ・イメージが1着になったんだ。しかも大穴だよ!。配当がすごいんだ」 。いくらか覚えていないが、寺山さんは、莫大な金額を言った。
その次の電話は、ニューヨークのホテルからだった。 「ダンサーズ・イメージが新聞に載ってるんだけど、ちょっと見てくれない?」 近くのコーヒーショップに行くと、すでに来ていた寺山さんが、デイリーニュースを広げて見入っている。
裏表紙いっぱいに、きれいな馬の全身写真が載っている。「DANCERS'IMAGE」という見出し文字が目立った。よく読むと、この馬は、ダービーで優勝したあとの尿検査で、薬物が検出され失格になったらしかった。
「配当金、受け取った?」
寺山さんは、首を横に振った。
「ねえ、犯罪者は、なぜ犯罪を犯すのか、知ってる?」
寺山さんは、まだ新聞を見つめたままだ。
「犯罪を犯した翌日の新聞に、たとえば、殺人の行われた家の間取りなんかが載って、その中に死体の倒れていた位置なんかが示されているでしょ。犯罪者は、それを見たくて殺すのよ」
ダンサーズ・イメージと関係のあるような、ないようなこの呟き。この馬はやはりただものではなかった。最後まで、したたかに寺山さんを振り回していた。
『奴婢訓』(ぬひくん)の公演を、ラ・ママ劇場で天井桟敷が行ったのは1980年。劇団員がみな東京に発ったあと、私は数時間後にパリに向けて発つ寺山さんと過ごした。
公演のための通訳を探してと言われて、私が紹介した19歳のK少年は、通訳としては役立たずだったというので、私は詫びたかった。
「Kちゃん、どうしてる?」
「19歳の少年は、天井で鳩を捕っている」
寺山さんはリラックスして、天井を見上げながら言った。
芝居の最中に天井の暗がりに逃げて隠れた白い鳩を、芝居の終わった後の劇場の高い天井に昇って捕っている少年のイメージが浮かぶ。俳句を読み上げるような言葉の調子に、少年へのやさしさが滲んでいた。
出発の時間が迫って別れる時、どうしたことか寺山さんは、私に向かって最敬礼をした。不意をつかれてどぎまぎしながら、腰を直角に曲げて頭を下げる寺山さんを、私はただ見守るばかりだった。
この時が、寺山さんとの最後の出会いとなった。
(次回は映画作家、ジョン・スミス)
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