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 よみタイムについて
 
よみタイムVol.142 2010年8月6日発行号

 [其の44]

ジャーナリスト・吉澤信政
個性的な最後の編集者
リッチな人生、思うまま生きた

旅先で「金ちゃん」こと架田氏(右)と

松井選手の大ファンだった

冬になると北海道から送られてきた「どてら」を愛用。
(40代前半、読売アメリカにて)

 その動かなくなったデスマスクと対面していると、ああ、この人はこの身体を抜けて、それこそ千の風になって、自由にどこかを飛んでいるのだと思うのだった。「ハハハ、そんなとこにいないよ」という、いつものさわやかな笑いと声が、どこか見当違いの方向から聞こえてくるような気がする。
 まるで手品のようにどこかに姿を消してしまった吉澤編集長。「よっちゃん、どこにいったのか教えて」と、みんなが母親を亡くした幼児のように悲しんでいる。
 ダンディーで、どこにいても、なにを着ても、スレンダーな身体になじんだ着こなしは、なりふり構わない記者たちとは違う、貴公子のような印象を与えていた。その人がいなくなったのは、ほんとに寂しい。
 吉澤さんの作る卵焼きは、誰の心をもとろかすほどおいしい。みそ汁もご飯も。一度でもお相伴にあずかった人は、忘れないだろう。とりたてていうほどのものではない普段の食事だが、子供の頃、母親によそってもらったときの味がする。
 「お茶を、一服いかが?」と、たまたま編集部を訪れた時、突然言われた。誘われて奥の部屋に行くと、以前ソファーが置かれていたところがスクリーンに囲まれた一画になっていて、畳がしかれ、茶道具一式が美しく配置されていた。そして、和服姿で茶釜の前で正座し、私を待つ吉澤さん。突然舞台に引き出された劣等生のように、私はぎごちない動作で吉澤さんの前に座った。
 肩から手にかけてのなだらかな線の美しさは、いいようがなかった。すっかり力が抜けたその手先から茶道具に、まつわるように気が流れていた。「楽に飲めばいいのよ」と、彼は言った。熱くなく、ぬるくない、なんともおいしいお茶をいただいたものだった。
 産経新聞の記者、とくにスポーツ記者として活躍していた吉澤さんは、1983年に渡米し、それ以来ニューヨークの日本人地域社会のための日本語新聞の編集を続けてきた。休刊まで18年間編集長をつとめた『ニューヨーク・ヨミウリ』(後の『ザ・ヨミウリ・アメリカ』)は、今のようにコンピューターもなく、ましてインターネットで情報という手段もなかった時代に、地域の日本人・日系人にきめ細かな町の情報を提供した。
 今発行されている『よみタイム』も、今の地域社会に文化的刺激を与えようとする新しいタイプの隔週刊紙だ。
 かつての日本語新聞は、地域の事情が分からず、孤立していた赴任早々の駐在員やその家族、学生、アーティストなどに、文化イベント、現地のニュース、教育問題、法律問題などきめ細やかな情報を提供し、生活情報として役立つ広告も豊富に掲載し、コミュニティーの情報の血管のような役割を果たしていた。
 コンピューターが使われるようになるまでは、新聞編集はすべて手作りだった。原稿用紙の升目に書き、それをレイアウトして写真植字してもらい、校正し、写真も現像してから製版し、それをすべて台紙に貼り込んで原板を作り、印刷する。取材よりも原稿作りと制作に長い時間がかかった。それを定期的にこなしているうちに、自然と編集者気質ができてくる。その頃の編集者は概しておとなしいが、頑固で信念が強かった。妥協しなかった。
 その頃、吉澤さんのオフィスを訪ねたことがある。毎晩徹夜のような仕事を続けているスタッフは、それでも疲れた様子もなく仕事をしている。仕事の締め切りがある上に、ちょうど手仕事からコンピューターへの切り替えがされている最中で大変だった。
 吉澤編集長は、いつも表でみせるダンディーぶりから一変して、どてらに草履スタイルで、ひょうひょうと、冗談をいいながら仕事をしていた。人に役立つ仕事をしているという編集者魂がみなぎっていた。そして、そのまま眠らずに、朝まで仕事仲間との交遊にも励んでいた。こうして取材もしたのだろう。人に心を尽くし、甘えもし、多趣味で、ゴルフ仲間もにぎやか。グルメでも知られた吉澤編集長。仕事、趣味、交友、凝縮したリッチな人生を思うままに生きた、人間臭かった時代の、個性的な最後の編集者の一人だった。