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よみタイムVol.138 2010年6月4日発行号

 [其の42]

美術家・荒川修作
ネオダダのひとりNYで活躍
「養老天命反転地」話題に
「死なないために」身体の再発見試みる

制作のパートナーだったマデリン・ギンズ夫人と

 えっ? 荒川さんが亡くなった? 5月20日のニューヨークタイムズ紙の記事を見ながらしばらく動けなかった。
 穏やかで、ちっとも年をとらない体型で、額にかかる黒い豊かな髪が印象的だった。30年以上前、初めて荒川さんのスタジオを訪れた時のことだ。
 「君は、考えるとき、身体のどの部分で考えるのかな」と荒川さんに訊かれた。マデリンは、そばでにこにこして、「私は手の指で考える」と、自分の手を見ながら言った。「え、まさか」と、私は思った。そして「私はアタマで」と言いつつ、なぜか自分が愚鈍のような気がした。
 哲学的に、科学的に、身体の機能を根本的に見直すという、彼らの仕事に私が気づかず、日常的な常識に流されていたのだった。
 戦後の自由な時代が始まった50年代から60年代の日本では、伝統を拒み、
独自の現代美術を目指す若いアーティストや音楽家、ダンサー、詩人たちの活動が活発だった。
 舞踏の土方巽や大野一男、音楽の小杉武久や刀根康尚、フルクサスのメンバーのオノヨーコや久保田成子、映画の大林宣彦や飯村隆彦。荒川さんは篠原有司男や赤瀬川原平などとともにネオダダの一人だった。その後、これらのアーティストは、活動の場を求めて次々にニューヨークに移住したが、1961年に渡米した荒川さんはそのはしりだった。
 荒川さんは読書家で、その上饒舌で、ウィトゲンシュタインなど哲学者の言葉をさかんに引用して、聞く人を煙に巻いてにこにこしている。
 「ぼくは、もうアーティストではないんだ、景想家、なんだ」と、荒川さんは言った。
 景想家という言葉の解釈は訊かなかった。荒川さんは、自分の仕事を見ればわかるだろうといわんばかりだった。
 自分の置かれている環境あるいは運命を徹底的に体験し、研究し、超越する専門家とでもいうのかなあと、私は想像した。
 「死なないために」が、荒川さんの仕事の原点だという。それは、生きているときに、死を無抵抗に受け入れない。そのためには、死をもたらす自然の仕組みを身体で探求し、死の意味を熟知し克服するしかない。怠惰な身体(運命)を覆せ。それこそ生きることの意味であり、生き甲斐でもありうる。凡人の私はそう
解釈した。
 荒川さんの大きな居間が、珍しく仕事場に変わっていた。大きなテーブルには大量の紙が重なり、壁には大きな写真がびっしり貼られていた。地表が窪んだ巨大な穴のクローズアップ。「この窪地、八角形になっている。こういう形には気がよく集まるといわれているけれど」と、私がいい加減なことをいうと、荒川さんは珍しくなにも言わず、なにか考える顔つきをしていた。
 この時こそ、岐阜県に造成され話題をよんだ遊園地「養老天命反転地」のプロジェクトに取り組んでいる最中だった。この遊園地には、ぼんやり立ったり座ったりできる場所が一つもない。たえず全身でバランスをとり、環境を研究しながらでないと進めない。
 そうして自分の運命を知り、克服し、死を覆す、そういう場所としての遊園地である。
 荒川さんのもう一つの大きなプロジェクトは、1991年の東京晴海に計画された新開発地の造成だった。都市の機能をすべて地下にもぐらせ、地上を緑地帯にするという計画で、運命を反転して「死なないための」不安定な住宅が並ぶはずだったが、これは、完成し、ほとんど建設に着手されるバカリだったが、当時
の都知事、青島幸男氏の急な病死のために実現しなかった。 
 運命に逆らって「死なない」という荒川さんの思想は、自分に、環境に、政治に流されず、全身を使って100%生きろというメッセージだと、私は思っている。
 荒川修作は死なない。