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よみタイムVol.134 2010年4月9日発行号

 [其の40]

日本アートの革命者・篠原有司男

篠原有司男のBoxing Painting
(2006年5月24日N.Y.)
Photo by Bill Farrington
モヒカン刈りのネオダダ
知性持った肉体で時代変える

 それは、よく晴れた60年代初めのある日だった。日米安保条約反対の大反乱の立役者だった学生たちのエネルギーがまだまだ覚めきれず、その余韻で、色々な分野の若者たちは既成の文化を壊そうとやっきになっていた。
 「今日、うちの横でアクションやるからさ、来てよ」
 モヒカン刈りのヘアスタイルが人の目を惹いて、誰でも知っているネオダダ(前衛アーティスト・グループ)の立役者「ギューちゃん」こと、篠原有司男さんからの電話。
 集団就職の若者達のための人生雑誌のほやほやの編集者だった私は、すぐに中央線沿線のギューちゃんの家に出向いた。いつものようにカメラマンの藤倉明治さんも一緒だった。当時のカメラは大きく複雑で、何年も写真学校で勉強しなければ失敗の許されない報道の写真など撮れない。ラグビーと登山で鍛えた藤倉
さんの身体に、大きなカメラバッグ、三脚までが絡みついていた。
 「ギューちゃん」は、周りのものを取り払ってきれいにした自宅の表の壁の前に異なる色のペンキを容れたいくつものバケツを並べ、上半身裸で、ボクシングの稽古でもするようにフットワークをしながら腕を交互に突き出したりしている。
 今から始まるイベントを思ってわくわくしながら、私たちはカメラの用意をしていた。観客は他にいなかった。
 「今日は、藤倉さんの写真のためにアクションをするからね」
 「ギューちゃん」は他にだれも来なくても動じない。
 やがて、ちょっと緊張したあと、「ギューちゃん」は足下のバケツを持ち上げ、勢いよく畳3枚ほどもある壁の上一面にぶちまけた。赤いペンキが、白い壁にベタッと血のりのようにしぶきをとばして貼り付き、上の方からはダラダラと血の色がつららのように糸をひいて流れ落ちる。
 さらに黄色、黒など数種の色のペンキが、前にかけたペンキの色の上に重なるように、ボクサーのような軽快な身のこなしでぶちまけられる。あっという間に、すさまじくエネルギッシュな抽象絵画が生まれた。瞬間、当時、来日して草月アートセンターのホールの壁画を描いたマチューのアクションペインティング
を連想したが、こうして現実にアーティストが目の前で体当たり制作するさまを見ていると、飾られている作品にはない生々しさに圧倒されるばかりだった。
 「ギューちゃん」も上気して荒い息をしている。出来上がったペインティングは、ほかほか湯気が上がっている料理のように人を魅惑する。藤倉さんは、ものも言わず、一眼レフのレンズを覘いてはあちこち歩いている。
 東京芸大の洋画科を優秀な成績で卒業した「ギューちゃん」は、身に付いたデッサンの技量を、身体を張ってしゃにむに消しとろうとしているように思えた。新しい日本のアートのためにゼロから始めたいという思い。新しいダダ、ネオダダと
して。それが若い日本の60年代のアーティストたちをつき動かしていた。「ギューちゃん」の体当たりアートは、そのシンボルだった。
 あの絵は今、どうなっているのだろうと思う。あるいはどこかの美術館に掛かっているのかもしれない。
 オノヨーコが新橋の内科画廊の屋上で行った「空の販売」のイベントも、ハイレッドセンターの「身体測定」のハプニングも、小杉武久たちのタージマハール旅行団が江ノ島海岸で行った終わらないライブの演奏も、土方巽の暗黒舞踏も、「ギューちゃん」のアクションペインティングと同じように、時間の中に消えて行った。60年代には、ビデオもまだなかった。記録機材は写真かフィルム、テープしかなく、ほとんどは人の記憶にしか残っていない。
 今は巨匠になっているが「ギューちゃん」は、いまでも、アクションペインティングを続けている。あのとき藤倉さんが撮った写真は、今になってみると、掘り出し物のブロマイドのように貴重に思える。
 新宿のモダンジャズ喫茶で詩人や作家や外人たちと徹夜でとぐろを巻き、寒い街の通りを、Tシャツだけで走り抜けたネオダダの連中は、今になってみると、日本のアートの一大変革者たちだったことがわかる。インターネットをもたなかった60年代の彼らは、知性を持った肉体で時代を変えたのだった。