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よみタイムVol.112 2009年5月1日発行号

 [其の30]

定型的人生を生きない粟津ケン
父・粟津潔になりきり回顧展
次世代の文化に向かい合う

 粟津ケンさんは、何々家というような定型的な人生を生きない。「お父さんの回顧展が今週いっぱいで終わるから、ぜひ見に来て」とケンさんに言われて、日本に着いて早々、川崎市民美術館へ出かけた。
 グラフィック・デザイナー粟津潔の厚みのある半生が端的にわかる展示。潔の息子ケンさんが構成した。ケンさんの顔立ちは、父の潔氏そっくり。作品を説明する様子は潔氏になりきっている。そう言うと、
 「でも、ぼくはデザイナーではないし、よくわかってない。でも、父の生きた軌跡であることはわかる気がする」
 病床にある父の代行をこなすうち、ケンさんはしだいに潔氏になりきり始めた。彼には自然に人の心にとけ込み、その人に変身する才能がある。そう思っているうちに、30年以上前、ニューヨークにいたころの彼が記憶によみがえってきた。
 ワシントンの高校を卒業してニューヨークにやってきた19歳の彼に、私はある仕事を頼んだ。劇団天井桟敷を率いてニューヨークにやってくる寺山修司さんの通訳である。この劇団は、ニューヨークの公演前にチャールストンで公演することになっていた。私自身が頼まれたが、仕事があってできないので、ケン少年に頼んだ。彼はあっさり引き受けて、劇団といっしょにチャールストンに出発していった。
 その後、ニューヨークでの公演。寺山さんのワークショップでは、ケン少年はベレー帽を斜めにかぶり、窓枠に座って寺山さんと参加者との通訳をしていた。うん、うまくいってるわと、私は安心した。
 「ケン君は役に立ってる?」と、私は寺山さんに尋ねた。「ああ、通訳は他にみつけた。彼はぼくの言うことの半分くらいしか伝えないんだ。でも、いい少年だ」それから一息つき、ソファにもたれて仰向けになったまま、台詞のような言い回しで言った。
 「19歳の少年は、天井で鳩を捕っている」
 ラ・ママ劇場での天井桟敷での公演の演目は寺山修司作『奴婢訓』で、終演後、高くて真っ暗な天井に飛んでいったままの鳩を捕まえるのがひと仕事だった。ケン少年は、サーカス団の演技者のように、毎晩天井にのぼり、たちまち白い鳩を捕まえておりてきていた。寺山さんの通訳としてのケン少年への評価にたいしては「ぼくは英語ができないのではなく、寺山さんの日本語がさっぱりわからなかったんだ」と、心外そうだった。
 ケン少年は寺山さんに愛されて、通訳以外のことをなんでも手伝い、創作する人のエネルギーを身近に感じ、劇団での経験から、彼は表現し伝えることを体験として学び、成長した。
 寺山さんと同世代で天井桟敷のポスターをよく制作していた父の潔氏を、寺山さんを通して理解できた部分も多いだろう。その何点かが今度の回顧展でも展示されていて、その前に立つ今40代のケンさんは、それを創った当時の潔氏によく似ている。
 その後、ケンさんは私の編集していたOCSニュース誌のコラムニストになった。「字が分からないので、仮名をふっておくから漢字をいれてね」と言いつつ、彼は黒人音楽に熱中し、バスケットボールにも詳しかった。それだけでなく、その文体に独特のリズムがあり、聴いたことのないジェームズ・ブラウンの音楽も、空を歩くマジック・ジョンソンも、読む人を興奮させた。
 そして、彼が投書欄に寄せた一文『テリー山田はやめてもらいたい』は、日本人社会に波乱を呼び、いつまでも反論や賛成論が続いた。ケンさんの言い分は、「ちゃんとした日本の名前があるのに、自分を西洋風な呼び名にするのはやめろ」ということ。アメリカ人に日本の名前が覚えにくいので、分かりやすい洋風のニックネームを使う人が目立っていた。
 ケンさんの発想は、つねに自分の肌で感じた感覚にたいする条件反射。計画することなく展開していくところが面白い。
 90年に日本に帰り、今、一児の父。出版社の役員になっているが、デザインジーンズをはいて40年前と同じにパーマをかけたロングヘアのケンさんは、若いアーティスト、詩人、作家、音楽家たちと交わり、次世代の文化に向かって本能の触手をのばしている。