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よみタイムVol.109 2009年3月20日発行号

 [其の29]

イーストビレッジの大学教授・山口昌男
どこにいても人類学の研究に
貧乏でも自由と可能性があった

 70〜80年代、イーストビレッジに住む日本人といえば、主流からはずれてこつこつとマイペースの人生を歩んでいるというイメージがあった。
 働きながら勉強している、絵を描いている、映画をつくっている、ものを書いている、ダンス、歌、楽器のレッスンに有り金すべてを注ぐ人、何をしているのか分からないが、いつも顔を見る人など、夢を食って生きているような人ばかりといってもよかった。
 今と違い、イーストビレッジは家賃が安かったので、自然とそういう一匹狼が集まったともいえ
る。異端の日本人たちの集落である。
 そこにある時、一人の文化人類学者が紛れ込んできた。文化人類学者の山口昌男さんである。東京外国語大学教授で、学生など知的好奇心の強い人たちに人気があり、東京の紀伊國屋書店などには、山口先生の著書だけのコーナーがあった。
 先生はホテルでなく、必ずイーストビレッジの誰かの小さいアパートに居候する。
 博士論文を書いていたHさんのアパートのことが多かった。Hさんは独り者なので、先生は自分の家のように自由にふるまう。先生が見えるといつも、近所の一匹狼の日本人が集まって朝まで飲み会が繰り広げられた。小さいテーブルの上に鍋をおいて、よく鍋料理をした。先生は、料理も上手で、みんなが食べる様子をスケッチしていた。
 絵が上手だった。調査でスケッチが必要なのだ。先生にひかれて、浅田彰、三浦正志、上野千鶴子などという若い哲学者、社会学者たちも日本からやって来て、イース
トビレッジのあちこちのアパートに泊まった。私のところにも、上野さんが泊まった。
 学者たちは実に魅力的だった。話がはずむ。知的刺激は何にも代えがたい。
 先生は、できるだけイーストビレッジの異端の日本人と生活を共にしようとしていた。ジャック・スミスの一人芝居を見にいってとうとう朝になり、ついに最後の観客
となって舞台の掃除を手伝ったり、メトロポリタンオペラの天井桟敷のチケットを買いに奔走したり、ジョン・レノンが銃弾に倒れると現場にかけつけたりした。
 そして、いつも異端の日本人たちにとりまかれ、それを先生自ら少年探偵団とうれしそうに呼
んでいた。
 どこにいても、そこは人類学の研究所であり、フィールドワーク、つまり現地調査の場所となる。今思えば、インドネシアの奥地の部落もイーストビレッジも先生にとってはいい研究対象だったろう。
 資本主義の本家アメリカは、日本の学生運動では「アメリカ帝国主義」とされ、悪の根源とされていた。そのアメリカでカネ以上のなにかを求め、商業主義にのらない、
いわばわざと落ちこぼれている人間の存在を許す奥の深いアメリカ社会の構造を調査していたのではないか。ここに入ると、人間が自由になり、創造的になり、可能性をもつようになる。そのフィールドワークをする。
 80年代に一度、イーストビレッジで、強盗にやられて日本人が一人殺されるという事件が起こった。その時、日本の領事館は「こんな(危ない)所に住むな、安全地域のちゃんとしたアパートに越せ」というアドバイスをした。しかし、ここの日本人たちは反発し、以後、もっとコミュニティ意識を高めていった。
 貧乏でも自由をというイーストビレッジ魂は、資本主義コンクリート・ジャングルの中の聖地であるという認識は、ネクタイを首に締めた資本主義エリート族には理解されなかった。
 学者は、ネクタイしていても実に自由で柔軟な開かれた精神をもっている。彼らは直感的に、この聖地の大切さを理解したにちがいない。
 山口先生がニューヨークの聖地について研究発表をしたかどうかは確かめてはいない。しかし、人間の不可思議な儀式や生活習慣は、すべて人間がより人間らしくなっていくために必要不可欠だったとする文化人類学の観点からすれば、危険だから観光客は足を入れるなと言われた時代のイーストビレッジこそ、現代人の究極の聖地だったということは間違いない。
 怖くてその垣根を超えなかった人たちが失ったものは大きかった。