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よみタイムVol.105 2009年1月23日発行号

 [其の27]


舞踏家・大野一雄の世界

なぜ、欧米人を惹きつけるのか
人の魂が動いて会話し感動与える

「私のお母さん」公演中の大野一雄

ペギー・カプラン写真展から

 ドイツ人の女性監督、ドリス・ドリエが作った映画『チェリーブロッサム』を見て、また考えてしまった。なぜ、舞踏に惹かれる欧米人たちが多いのだろう。
 ヨーロッパやアメリカには、大野一雄の舞踏は日本よりもっと熱烈なファンが多い。しかもほとんどが、舞踏を通じて日本を知り、自己変革を試みる。
 この映画の中心は、人生に大部分を会社勤めで過ごした初老の男と家を守る主婦。平凡な中流の家庭生活。子どもたちは独立している。男にとって妻は、玄関脇のコート掛けのようなもの。いて当たり前。特別な会話もなかった。
 ある日、妻が突然死ぬ。その喪失感は、コート掛けがなくなったどころではなかった。子どもにも持て余された男は、妻の不在を嘆き、悔い、着る人のいなくなったカーデ
イガンやスカートをまとって、妻の好きだった日本を旅する。その旅の途中で舞踏を舞っている少女と出会う。少女は舞踏を舞って死んだ母親と通じるのだと言う。
 それを聞いた男は、舞踏によって妻と通じようと考える。ついにこの平凡な男が顔を白く塗り、メークをし、同じように白塗りメークをした死んだ妻と舞踏を舞う。
 この監督はフランスのテレビ番組でドイツ人の作った大野一雄のドキュメンタリーを見て、すっかり魅了されて日本文化に興味をもち、この映画を作った。
 舞踏は60年代に始まった日本独特の舞台芸術だが、日本ではむしろ異端で、ダンスでありながらダンスではなく、当時起こった前衛芸術運動ネオダダのうねりの中に巻き込まれて、そのユニークな一部分になっていた。暗黒舞踏グループを結成した土方巽は暗闇の中で形のない魂の動きを追求していたし、大野一雄も全身を白く塗りこめて、土方とともに形のないダンスをしていた。既成の芸術の概念からはずれたさまざまな造型、アクション、ハプニングなどとともに、舞踏も一種のグロテスクなスキャンダルとみられていた。
 大野の舞踏は、振り付けられた形から決まるダンスではない。その正反対だ。皮膚という袋で包まれた身体の中の内臓、骨、肉、血その他の臓物が、それぞれの物語を語って全体の形のようなものになる。何万年も前から伝わった遺伝子たちの交響曲だ。頭から爪先、指の先まで、さまざまな魂が取り巻いている。死んだ人、生きている人の魂が動いて会話して、それが、見る人に感動を与える。だからダンサーは、巫女に近い。
 「手は自由によくしゃべるが、足は命を支えている。それで舞踏というんだろう」と大野は言う。観客は舞踏を見ながら、思い入れで聞きたい言葉を聞く。欧米人はその言葉に惹きつけられるのだろうか。
 孤独という言葉が浮かぶ。欧米人が舞踏に惹かれるのは、それぞれが孤独という暗い洞穴を抱えているからではないか。舞踏はその暗闇にしみ込む。もちろん、欧米人でなくとも孤独だ。でも、欧米人の孤独はおそろしく寒くて暗いにちがいない。聖書の上に手を載せて誓う、あの姿を思うだけで、孤独な人々だと思わされる。自立し、けっして人に甘えず、説明責任を負い、自由の代償として責任を負う。そういう文化の中では、死んだ妻と通じることができる手だては現代アートの舞
踏というわけだろうか…。
 大野一雄は、花を一輪手に持ち、踊る。花は彼の中で無限に増殖し、見る人の心にも広がる。みんな心に溢れる花畑を持ちはじめる。「お母さん」のおなかにいたときの安らかさを思い出す。大野は心のヒーラーになる。
 この映画のタイトルの『チェリーブロッサム』とは、日本のお花見のことで、つかの間の桜の花の満開の時期を、日本人は特別のピクニックときめ、とことん満喫する。つかの間の晴れた空に驚くほどの美しい姿を見せる富士山を愛でる。それらは日本人独特の「もののあわれ」だと、この監督は語っている。無常観。お花見や富士山だけでなく、日本人は、つねに無常と向き合っている。
 戦争で爆弾が降ってきても、私たちは復讐を考える前に次の運命を待ち受け、対応しようとした。
孤独は、現代人の向き合うほんとに切実な問題だ。孤独はどんな暴力よりも辛く、堪え難い。孤独を癒す力が舞踏にあるのなら、ほんとにすばらしい。それこそ芸術の力
というべきだろう。これは娯楽に傾きがちな今の商業的なアートにはまったく備わっていない。