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よみタイムVol.91 6月20日発行号

 [其の20]



中西泰子さんの残した日系人史
一世からの聞き語りまとめる
未完成だった「母国は遠く」

 中西泰子さんについて、私はそれほど多くを知っていない。顔なじみプラスアルファ程度で、長い間を過ごしてしまった。しかし、ひとつとても気になっていた事があった。 
 中西さんが、ライフワークのように取り組んでおられたニューヨークの日系人の歴史編纂の仕事である。一度、読んでほしいと言われ、ぜひと言いつつ、コンピューターもないころの編集者生活があまりにも忙しくて、先送りにしたままになっていた。それが、中西さんのメモリアルサービスの席に現れ、いても立ってもいられない気持ちだった。
 デコパージュなど多才な趣味はプロ級で、料理その他の家事も完璧。主婦としても非の打ち所がない。その上、日系人会などコミュニティの活動に積極的に参加して、なにくれとなく人様の面倒をみながらも努めて表に出ない、大和撫子風な一面があった。
 短歌や俳句の会では、異文化での暮らしを巧みに表現する女性の品格の鏡のような人で、私にはまぶしかった。
 ところで、長年気にかかっていた彼女の仕事を、今ごろになって手にすることになった。ご主人の香爾氏が追悼会に他の遺品とともに持参され、その場で回覧されたからだ。まだコンピューターが普及していなかったころに書かれた原稿は懐かしいワープロ書きで、小さい紙を切り張りして細かい訂正が几帳面に施されている。
 明治大正時代に渡米して米国社会で力をつけていった日本人(日系人)たちの動向を記録した水谷渉三著「紐育日本人史」(大正13年発行)の現代語訳、そしてニューヨーク日米新聞社(当時は北米新報)が戦後になって出版した「紐育便覧」を資料として、戦時中と戦後のニューヨークの日本人たちのアメリカ社会での苦闘と成功を簡潔にまとめたその後の「ニューヨーク日本人史」。
 だが、中西さんがもっとも精力を傾けた仕事は、日系一世たちからの聞き語りをまとめた「母
国は遠く」だったろう。前の2册が50ページ程度なのにこの原稿は100ページ近く、しかも未完だ。
 密航したり、途中下船したままアメリカにいついたり、移民だったり、明治、大正、昭和初期にかけて、無一文からタフに新天地での人生を切り拓いてきた一世たちの、片言の英語まじりの回想談義は、不思議に明るくユーモアさえ感じられる。この中の登場人物の中にもすでに亡くなった方々が含まれている。
 コロンビア大学教授夫人として、いわば上流の家庭生活を送りながら、偶然に日系一世という今の日本人が忘れかけていたパイオニアの存在を知り、その記録を残そうとした中西さんの遺志を、誰かが継がなければならないだろう。
 歴史は、今のニューヨークの日本人に自分のルーツを教えてくれる。一世のガッツのある生き方はもとよりだが、戦時中、市民権を持っていても敵性外国人とされ、西海岸のようなキャンプ送りはなかったにしろたえず敵視されながら米国への忠誠心を示し続け、戦後は、疲弊した日本救援のために寄付金やチャリティ演芸会の収益を10万ドル近く集め、現金送付が許可されなかったためにミルクや衣類などを買い、宗教団体ララの物資として、戦後4年間も送り続けたニューヨークの日本人のことなど、今の日本
人がどれほど知っているだろう。
 当時、日本救援のために結成された日本救援会は、米国社会の敵視を避けるために一度解散するが、これが今のニューヨーク日系人会の母体になっていることにも驚かされる。そんなことで、今、未発表のままになっている原稿の束を手にしながら、中西さんの心残りをしみじみと感じる。
 中西さんは、文学少女だった。もう30年もたつが、劇作家でも俳人でも歌人でも詩人でもあった故寺山修司氏を囲む会を開いた時、出席者は中西さんをいれて4、5人だった。中西さんは寺山さんに俳句について熱心に何か質問をしていた。寺山氏も真剣に聞いていた。俳人としての彼の一面を初めて見たような新鮮さだった。
 「たくさん作らなくてはだめね。芭蕉だって彼の全句が傑作というわけではないでしょう。言葉も大事だけど、ものの見方、感じ方、生き方が面白いので、言葉はその表現のために磨くんではないのかな」というようなことを、寺山さんはとつとつと話していたような気がする。
 テーブルごしに寺山さんの前に座った中西さんは寺山氏の顔をまっすぐ見つめ、膝の上に両手を組み、少女のようにかしこまっていた。年をとっても初々しく、真面目な人だった。
 「捨てられし 路上のソファにくつろぎて ホームレスのどかに残飯食めり」(中西泰子の歌集「故国ありぬ」より)