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 よみタイムについて
 
よみタイムVol.87 4月18日発行号

 [其の18]



ヘルスフードの先駆者・ひさえ
うす暗い街路に店開ける、ベジタリアンに大人気
NYタイムズ紙がトップ推薦

共同経営したひさえさん夫妻

 不況に沈んだ1980年代のニューヨークでは、ミッドタウンの大きなデパートや銀行が次々に倒産して空家となり、暗さを増した5番街など夜になると歩道沿いにホームレスのダンボールの寝場所が連なっていた。
 当然高級レストランなどは閑散とし、人がいるのはコーヒーショップかファーストフードの店くらいだった。
 シャッターのおりた古い店の並ぶイーストビレッジ。人通りもない暗いストリートに、新しいフレンチレストランが店開きをしたのはそのころだった。もとガレージだったような古びた造り、古材を使った素朴なテーブル、暖炉には薪が燃えている。その前のソファに陣取って、近所に住む日本人アーティストたちが注文した料理を味わっていた。
 「このステーキ、醤油の味がするよ」
 「このドレッシング、味噌が入っているんじゃないかな」
 「わあ、椎茸だ」
 料理はフランスのものだが、日本、アメリカ、東南アジアなどの食材がほんのりと感じられる実にユニークな味で、日本食に飢えた当時の在米日本人の心を奪わずにはおかなかった。
 店に時々顔を出す小柄な東洋人の女性がいた。割烹着を着た主婦のようないでたちなのでキッチンヘルパーかと思われたが、この人がオーナーシェフのひさえさんだった。暗くてよく分からなかったが店の名は「HISAE」。観光客さえ足を向けない危険地帯とされていたイーストビレッジのこの店の前には、どういうわけか、ピカピカのリムジンが詰め掛けていた。
 「初めウエストビレッジに店を持ったんだけどそれが火事で焼けたのでここに新しく開店したのよ。前の店はテーブルが4つしかなくて、メニューも自分で書いて毛糸でとじて…それなのにランチタイムには何ブロックもお客の行列ができたの。ここなら少し大きいでしょう」
 この不況の時期に、なぜひさえさんのレストランに人が押し寄せたのか。
 それまでビレッジのジャズレストランでキッチンヘルパーをしていたひさえさんが、同僚だったペルー人の夫とレストランを初めて開いた80年代初期、アメリカはベトナム戦争の後遺症がまだ癒えず、エイズなどの病気が流行りだし、不安材料に満ちていた。
 コレステロールという言葉が初めて新聞の大きな見出しになり、アメリカ人のメタボリック・シンドロームがクローズアップされ始めていた。
 そんな時、ニューヨーク誌やニューヨーク・タイムズ紙などが推薦するレストランのトップに、テーブル4つの「HISAE」レストランをランクした。アメリカの料理としてはコレステロール値が低いうえ、適当に和食の調味料や材料を使ったひさえさんのオリジナルメニューは、当時ベジタリアンの人たちに流行っていた菜食料理よりも美味。それがメディアをひきつけたのだろう。
 今では和食は国際化したが、当時はレストランの数も少なく、材料も手に入りにくかった。生の魚を食べる日本人に目をむくアメリカ人は珍しくなく、日本人はパンくずに野菜を漬けて漬け物を作ったり、ラーメンを恋しがってチャイナタウンを彷徨ったりした。
 ひさえさんは当時50代だったがペルー人の夫は息子と同年齢の25歳。3人でとにかくこのブームを捌いていた。それが火事ですべてご破算となった。しかし、その時の客は、イーストビレッジの店が開くと同時に待っていたように戻ってきた。
 「私の料理は自分の健康によいようにと考えたの。レストランで働いていた時に乳癌にかかって、手術後、あと5年再発しなければ大丈夫と言われ、それならと、人生の残り時間かもしれない5年間休みを取って世界旅行をしたの。世界の食べ物探検ね。自分の身体にいい、おいしい食べものをとことん研究したの。それが私の料理のもとなのよ」
 不安の5年間は無事に終り、開いたレストランは健康食ブームのきっかけとなった。
 戦後、日本の駐留兵だった最初の夫との結婚でアメリカへ渡ったひさえさんは、渡米後はともかく自分でできることをして自立の道を歩もうとした。特に離婚してからは、レストランで働きながら息子を育て、自分のレストラン・ビジネスが成功すると店の数を増やして若い夫と経営を分担し始めた。そのため、初めのころの「自分の手料理を」というモットーを守れなくなった。
 しかし「おいしい健康食ブーム」時代のきっかけを作り、たくさんのレストランのメニューに醤油や味噌、豆腐や椎茸をとり込ませ、寿司ブームまで起こし、健康食としての和食を国際化したひさえさんの功績は大きいと言わざるをえない。