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よみタイムVol.81 1月25日発行号

 [其の15]



共演する大野一雄(左)とヴィルジニー・マルシャン(カメラはジョナス・メカス)

マルシャンが恋した
大野一雄の命の躍り


マルシャンのパフォーマンス・コンサート『telegram』

 100歳の誕生日を迎えた舞踏の元祖の一人の大野一雄は、ムンクの描いたマドンナのように動かずに行儀よく横たわり、全身の重みを地球の引力に任せて、静かに目を閉じている。
 舞台の上で踊っているときのようにダークスーツを着、袖口からは荒彫りの彫刻のように筋張った、しかしのびやかにリラックスした手がのぞいている。
 その手に、若い女のしなやかな手が絡まる。女の指にはシンプルな青い輪が一つ。そして反り返った鋭い爪が2つ突き出ている熊の指が、女の他の指を飾っている。熊の爪をその上に突き立てた女の指が大野の指に寄り添い、しつこく絡みついていく。力の抜けていた大野の指がそれに反応してかすかにしかし確かに動く。指と指のエロティックなデュエット。
 目をとじたまま、大野がうめくような低い叫び声をあげる。指の触れあいはしだいに2人の全身に広がる。やがて髪や頬のふれあいになり、上気した大野の頬がはっきりと赤みを帯びてくる。
 フランスの痙攣(けいれん)的オペラ舞踏家、ヴィルジニー・マルシャンと大野一雄のこのデュエットは、昨年、マルシャンが日本の大野のスタジオを訪れて実現した。
 ヴィルジニー・マルシャンはフランス人の映画作家で舞踏ダンサー。大野一雄に惹かれ、これまで3年間、日本の大野のスタジオに通い、共演と撮影を続けている。
 ジョナス・メカスが撮影したビデオのイメージはクローズアップがほとんどで、大野の全身のショットはない。猫のように全身の力が抜けて横たわっている大野に、マルシャンはひたすらよりそう。じゃれかかっているようにもみえる。熊の爪がなまなましい。
 「初め、この熊の爪があまりにも生々しいので、カズオが恐れるのではと、心配しました。でも彼はとてもこの爪に興味を持ち、触発されて、私たちはとてもいい即興の踊りができました。先祖に衣と食を与えてくれた熊に感謝するカズオ。彼の踊りは、彼の身体の奥底に蓄積している記憶なのです。個人や人類の遠い記憶が、その柔らかい肌、短い叫び、きれいな黒い目、木のような匂いを通して蘇ってくるのです」と、マルシャンは回想する。
 このビデオをモニターの上で見てから、マルシャンのパフォーマンス・コンサート「TELEGRAM」(昨年12月26日・ソーホー)を見た。大きな2面のスクリーンがあり、両側の2面のスクリーンには、大野のクローズアップとインドの海、山、町にあるさまざまなうごめく生命のクローズアップが織り混ざったドキュメンタリーが上映され、中央のスクリーンには、カメラマンがリアルタイムで撮影するマルシャンの舞踏の細部が映し出される。
 目の前で踊っていても見えない細部、目、手、頬、頚、髪などの舞踏独特のドラマチックな動きがクローズアップされ、それを支えるようにライトやサウンドがドラマチックに効果を高める。マルチメディア舞踏だ。
 大野一雄はマルシャンのイマジネーションの中に溢れ、それがマルシャンの小柄な身体からこぼれる。大野はスクリーンの上にいるだけだが、彼女の身体全体が大野に引きずり回されているかのようだ。
 これはマルシャンの大野への身体で書いたラブレターだ。大野ばかりでなく日本の舞踏そのものがなぜこれほど西欧社会の芸術家たちを魅了するのだろう。
 60年代の初期、土方巽や大野一雄が始めた舞踏は、当時アングラと称された日本の前衛芸術の大きな流れの一部だった。振り付けはなく、あっても大まかで、身体そのものの生命の動きが追求された。「自分の土壌から生まれた時の動きを、虫のように、動物のように」と土方は言い、人間の身につけた社会性を動きから排除しようとした。
 大野は土方といっしょに踊り、自分の命の命ずるままに這った。66年に長野千秋が作った長いフィルムでは、石や塀の上を蛇のようにうねる大野の手だけが延々とクローズアップされていた。
 80年にニューヨークのラ・ママ劇場で公演した『わたしのお母さん』で、大野は母親の胎内にいたころの感覚で踊った。『ラ・アルヘンティーノ』では、23歳のころ、自分を魅了したアルゼンチンのダンサー、アントニオ・メルセになりきって踊った。
 外側で決めた美学の上で決めた振り付けを踊るそれまでのダンスとは違う何かが、今、マルシャンのような西洋人の心を奪っている。生命あるいは魂というようなもの、それは学問や科学を越えた広大なもの、人類が身につけた文化という装飾を排して始めて見え、感じられるものだと、舞踏は教えているようだ。