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 よみタイムについて
 
よみタイムVol.77 11月16日発行号

 [其の13]



在りし日の中上さん。何度かニューヨークを訪れた

デモに参加した中上さん。在日韓国人に対する指紋押捺に抗議

マイクを持つと「釜山港へ帰れ」をよく歌った

酒と歌とデモと 作家・中上健次
「酔いどれ」は作家としての表現
紀州生まれの反骨精神染込む

  「もう一軒、行こうよ」。
 すでにワイルドターキーの瓶を一本、前の会合でほとんど一人で空けてしまっていた作家の中上健次さんの顔は赤く汗ばみ、全身くらげのように力なく漂っている感じだった。
 ニューヨークで、深夜まで飲ませる所は、日系のピアノバーくらいしか知らない。
 もう翌日の午前になっている。私は自分のオフィスの一階にある開店したばかりの焼き鳥屋に、中上健次さんを案内した。ここは午前4時まで開いていた。
 カウンターに陣取った中上さんは、身を乗り出して焼き鳥を焼いている鉢巻姿の料理人にからんでいる。ここの店のポスターにも写真がのっている恰幅のいい料理人だ。
 「なんて名前?」
 「ケンジです」
 料理人は、相撲取りのように腹に力の入った答えかたをした。
 「なに?。ケンジ?。生意気だな、貴様」
 中上さんは気色ばんでなかば立ち上がりかけた。私はあわてて、酒をすすめ、彼を押し止めた。
 「ケンジだと?。俺と同じじゃないか、許せないぞ。苗字はなんだ?」
 「水上です」
 「なんだと?。一字違いか。お前生意気だぞ」
 じっと水上ケンジさんの焼き鳥を焼く様子を睨みつけていた中上さんは、やおら半身を起こすと水上さんの方に身を乗り出し、彼の頭に手を延ばし「それ、よこせ」と言った。
 「これですか?」と言って、水上さんは頭に巻いている鉢巻をはずして中上さんに差し出した。
 それを片手で受け取ると、中上さんは堅く絞って細くしてある鉢巻を垂らして緩め、手ぬぐいのように広げてから、ピッと縦に引き裂いた。それをまた引き裂き、さらに引き裂いて細いリボン状の切れっぱしをたくさん作って放り出してしまった。
 「困りますよ」と水上さんは半ベソをかく声を出したが、中上さんは平気だった。
 「お前は生意気だ。俺と一字違いとはなにごとだ」
 私はチェックをすまし、正体もなく酔った中上さんを引っぱって外に出た。
 酔ったこの作家を送りとどけなければと、タクシーで彼の住まいのあるビレッジの方に向かった。その途中、彼は急に車をとめて降りると言い出した。
 「もう一軒行こう」
 彼が迷わずに向かったのは、コリアンバーだった。
 「俺の歌を聴いてよ。ああ、今は歌いたいよ」
 まだカラオケはなく、生のピアノ伴奏で客が歌うピアノバーだった。
 まばらな客しかいなかったが、ピアニストがいて、中上さんは歌った。
 マイクを抱え、堂々と、当時日本でヒットしていた『釜山港へ帰れ』を歌った。ボリュームのある哀愁を感じさせるいい声で、思い入れたっぷりに歌った。不思議に、酔いはすっかり消えていたようだった。
 歌ったあと、さっきとは打って変わって静かになり、私たちは外に出た。
 「もう、開いてるとこはないかな」
 もう朝に近かった。中上さんは家に帰るのがいやなのかなと私は思った。ニューヨークに一時滞在していて淋しいのかもしれない。私にも自分なりにその気持ちがわか
るような気がした。彼の酒の飲みかたは、作家としての表現の一つかもしれなかった 。
 水上さんへの態度にも、単なる酔態ではない親愛の情が溢れていた。
 開いている店は間口1メートルぐらいのピザ屋しかなかった。ビールもなく、白んでいく空気の中で向き合ってコカ・コーラの缶を抱えていた。
 「今日は日本大使館の前で、指紋押捺に抗議するコリアンのデモがあるはず」と私が言うと、「じゃ、僕もいく」と疲れた顔で中上さんは言った。そんなこと言って も、こんなに飲んだあとでは、行かれるわけはないと、私は思った。
 でも、午前10時の日本領事館前のコリアンの抗議デモ隊の真ん中に、中上さんはいた。差別被差別の歴史が染み込んだ紀州から生まれた作家の顔がそこにあった。
 その後、中上さんは、ニューヨークを訪れるたびに、何度か水上さんのいる店に一人で行き、彼と親しくなった。東京の家の電話番号も教えたそうだ。


中上 健次(なかがみ けんじ)
1946年8月2日和歌山県新宮市生まれの作家・批評家・詩人。和歌山県立新宮高等学校卒業。本名は、表記は同じだが読みは「なかうえ」。羽田空港などで肉体労働をしながら執筆活動を行う。デビュー作は、村上龍『限りなく透明に近いブルー』の先行的作品とも呼べる『灰色のコカ・コーラ』。その後、紀州熊野を舞台にした数々の小説を描き、ある血族を中心にした「紀州サーガ」とよばれる独特の土着的な作品世界を作り上げた。1975年『岬』で、第74回芥川賞を受賞。戦後生まれで初めての芥川賞作家として、話題を呼んだ。92年腎臓癌のため死去。享年46歳。