宮崎監督の体が何度も宙に浮いた。本当に気持ちの良い胴上げだった。
「何度味わってもいいもんですね」と口元をゆるめる。これで、06年に続き4度目の優勝旗を手にした。
「じゃんくす」の前身は「タキサワ」だったが、いつも準優勝で、なかなか頂点にたどりつかなかった。「名前でも代えて心機一転だ」と世紀も代わった00年に「じゃんくす」にした。
「ジャンク」はがらくたとか、廃品を意味する。「こんな商品でも磨けば光るから」と選手たちも大賛成で平仮名で「じゃんくす」と命名した。何と、その年には念願叶って初優勝、翌年も優勝して、日系人会軟式野球大会の頂点に立った。
だが、ジョーカーズ、ニコニコ、シルバーズ、ラジエーターズなど強豪が打倒「じゃんくす」を目指して奮闘、群雄割拠の中、3年間優勝から遠ざかった。
それが06年にはエース岡の活躍などもあって宿敵・ジョーカーズを倒し再び王座に返り咲いた。昨年は、準決勝でシルバーズに破れたが、今年は、きっちり借りを返した。
「練習だけは他のチームにひけをとらない」という。冬場を除いて毎週日曜日にはセントラルパークに集合して練習に汗を流す。15人のメンバーは自ら体作りをして、コンディションを整える。
「監督としてやるのは、データ作りですね」と笑う。相手チームの分析はキメ細かい。あらゆるデータを収集して各部員に送る。このため、練習の時はフォーメーションの確認や実践などで経験を積んでいく。まさに野村監督並みの「ID野球」を実践している。
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甲子園球場のすぐ近くの兵庫県西宮市で生まれた。小学校の時は、少年野球で「甲子園の土」を踏んだこともある。浜脇中学でも遊撃手として、一時は、甲子園を目指した。だが、周囲の子どもたちを見て「オレのレベルでは無理」と悟ったそうだ。進学の名門「鳴尾高校」では野球部に所属していたものの、チームはあまり勝てなかったそうだ。
関西大学経済学部に進学した時は、野球を完全にあきらめた。卒業後も服飾関係の会社に就職、服の買い付けなどをしていた。
だが、人生は変わった。大学時代にアルバイトをしていた「京都志学舎」という語学学校がニュージャージー州に進出するという。日本がバブルに沸き返った88年の時だ。「海外に行けるチャンス」と分校の先生募集に応募。無事、合格してアメリカに。3年間の赴任だったが、アメリカ生活を捨て切れず、「帰国命令」を捨て、アメリカに残った。8年前から現在の米国日本通運で航空貨物の仕事に携わっている。
でも、大好きな野球は忘れていなかった。「京都志学舎」の分校にいたころ、友人の紹介で「タキサワ」というチームを知って入部した。小、中、高校と野球を経験しているだけに草野球では貴重な戦力となった。
「チームの戦力を考えている時が、楽しいですね。でも、日本に帰る人もいたり、常に同じメンバーで臨めませんので、大変ですけど」とニガ笑いする。
目標は「まず、連覇ですね。そしてかつての巨人のように何連覇もやってみたい」と熱っぽく語っていた。
(吉澤信政記者)
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