Copyright 2008 YOMITIME, A Division of Inter-Media New York, Inc. All rights reserved


お特な割り引きクーポン。
プリントアウトして
お店に持って行こう!

イベント情報





他にショッピング、ビューティー、
企業情報なども準備中!

 連載コラム
 [医療]
 先生おしえて!

 [スポーツ]
 ゴルフ・レッスン

 NY近郊ゴルフ場ガイド


 [インタビュー]
 人・出会い
 WHO
 ジャポニズム
 有名人@NY

 [過去の特集記事]

 よみタイムについて
   
よみタイムVol.92 2008年7月4日号掲載
茶道上田宗箇流16代家元  上田 宗冏

武家茶の本流米国人に
30年かけ制度を改革


客にお酌をする家元

  「150人ものアメリカ人大学生の前でスピーチするのは初めてでした」さる6月14日、ニューヨーク州の州都アルバニー薬学大学で行われた「薬学シンポジウム」に特別ゲストとして招かれた。きっかけは、大学の先輩でもあり友人の故日暮彰文が丸善製薬の社長だったころ、同大学と深く関わっており、生前から「茶の湯と薬学に関するシンポジウム」が企画されていた。
 しかし、日暮氏が昨年5月、白血病で急死したため急きょ「追悼のシンポジウム」開催となった。
 「茶の湯はどうして日本文化として入ったか」「静寂はいかに大切か。ゆったりとした自分の内面の静かな心というのは茶の湯の大原則。静かな心がないと見えるものも見えない」などと説いた。
 「どこまでアメリカ人が理解したか、分かりませんが、皆さん真剣に聴かれていました」。
 このあと、3畳に床の間を作り、掛軸をかけ、茶の湯の流れを説明した。大半のアメリカ人は初めて経験する「茶の湯」に戸惑いを感じながらも「奥深い日本の伝統文化を肌で感じ取ったようでした」と満足気に話す。
    ◇
 上田宗箇流は、千利休、古田織部に学んだ戦国の武将茶人、上田宗箇を流祖としたもので、3千家(表千家、裏千家、武者小路千家)のわび、さびの茶とは違って、武士の茶道だ。ひしゃくを持つ姿勢は、武士が馬上で弓を射る時と同じ、袱紗を右に付けるのは、左は刀を差すので、それ以外のものには使わない。
 5歳の時から茶の湯の世界に入った。父親は4歳の時に被爆による白血病で亡くなった。母親の実家が上田家だったことから、茶人の家で育った。男子相続が決まっていたため「子どものころから、将来は後を継ぐのだろう」を実感していた。
 高校3年の時は、受験などで1年間稽古を休んだが「もの心ついた時から今日まで、茶の湯は切っても切り離せないもの」だった。
 ただ大学を卒業すると地元、広島の銀行に8年間勤めた。「後継することに抵抗感があったんです」と振り返る。
 というのも、上田宗箇流家元は広島を本部にしているが、当時、武家時代から続いている家元制度(上田家自身が大名・大名や武士によって支えられている)を貫いているため、このまま継承するのには、厳しい状態だった。
 8年間の銀行マン時代も本部の仕事に携わっており、周囲からも「後を継ぐのはお前しかいない」と言われ続けてきた。
 30歳の時の決断だった。「よし、オレが後を継いで、改革しよう」。
 「400年以上続いている大名家としての茶の制度では、今後続かない。他の流派のように直接運営に関わるピラミッド制度の確立を」と構造改革に乗り出した。
 「思った以上に大変でした。今日のシステムを作り上げるまで30年かかりましたよ」という。伝統の重みは、そう簡単には変えられなかったのである。
 上田宗箇流には、広島市と姉妹都市を結んでいるドイツのハノーバーに海外唯一の茶室「洗心亭」がある。今回、アルバニー薬学大学で行った茶会で、茶道具一式を預けてきた。「これを機会に、少しでも茶の湯に触れて欲しい」からだ。
 「日本人だって、長い年月をかけて自分のものにしたんです。アメリカ人に浸透するまで、何十年かかってもいいんですよ」と家元は、やさしく笑った。
(吉澤信政記者)