「日本のまつり」に4万人が集まった。6月1日セントラルパークで行われた「第2回ジャパンデー」。昨年からニューヨーク総領事館や日系企業らが中心となって「日本の伝統、文化を紹介しよう」などの目的でスタートした。
「日本の文化」の代表格に空手がある。日本では、71年から77年まで週刊少年マガジンで連載された「空手バカ一代(からてばかいちだい)」(梶原一騎原作、つのだじろう・影丸譲也画)が多くの少年たちの心をつかんだ。さらに、84年にアメリカで制作された映画「カラテ・キッド」(パット・モリタ主演)が大ヒット、世界で「カラテブーム」に火をつけた。
今では世界の空手人口は1500万とも2000万ともいわれている。
「私も、世の中の子どもと同じように『空手バカ一代』にはまりましたね」と苦笑いする。当時は「巨人の星」など熱血スポーツ根性ものが流行っていたが「空手バカ一代」は極真空手の元祖、大山倍達(おおやま・ますたつ)をモデルにしたもので「身近に感じた」という。
そのころは体も大きくなく、陸上をやっても器械体操をやってもあまり魅力を感じなかった。だが、漫画に出て来る主人公「飛鳥拳」の男臭さにあこがれた。
「よし!、空手をやろう」と、千葉県流山の道場に入った。ブルースリーのカンフーブームも相まって、道場には希望者が殺到「順番待ち」の状態だった。入門その日のうちから「ケンカのつもりでかかってこい」といわれる。しかし、数分もかからず「ノックアウト」されてしまう。漫画や映画の主人公のようなわけにはいかない。「我々子どもはいざしらず、高校生や大学生は道場でのたうちまわっていましたね。人が失神するのを初めて見たんです」。
入門者も多いが、その分稽古のきつさについて行けず止めていく人も多かった。「確かに、いつもアザをつくっていてきつかったけど止めたいと思ったことはなかった」。だが、たった一度だけ「真剣に止めたい」と思ったことがあった。入門して3年目、黒帯の一歩手前の茶帯の時、出稽古で池袋の本部に行った。
「お前どこの道場から来たんだ」「先生は誰だ」など質問されたあと、「では稽古をつけてやる」といわれたが、本部でやっている人とは実力が違う。「まるで喧嘩のよう」の殴られ、蹴られ、踏んづけられ、こてんぱんにやっつけられた。「体が全く動かなかったんです。恐くて。帰る時、もう止めようかな、って思いました」。
「今から思えば14歳の小僧が茶帯で本部にきたもんだから目をつけられたんですね」と笑う。それから4か月後に最年少で黒帯を取った。
その後は「空手道」まっしぐら。80年には、弱冠17歳で全日本に初出場して4位、翌年3位、85年、22歳の時とうとう全日本大会優勝と頂点に立った。
そして、大学(中央大学商学部)を卒業した年、空手家にとって「死をも覚悟する」という「百人組手」を完遂した。これは、一人の空手家が連続して異なる百人の空手家と組手を行うことで、相手の攻撃を受け止めなければならないため、ケガなどで組手自体が続行不可能になることが多い。完遂しても身体へのダメージが大きいため、救急車を用意しての荒行だ。
87年の全世界大会では、のちにKー1の人気スターとなったアンディー・フグ(00年死亡)を決勝で破って世界制覇している。
ところが、これを機に、空手を引退した。「モチベーションが落ちたというのかな、目標を達成したし、人生で学ぶことも多いし」と振り返る。
このあとは、知り合いの紹介で社長秘書や、ワインの輸出入関係の会社でサラリーマンをしていた。ここで政治家や実業家など多くの人と巡り会った。わずか4年間だったが「今の自分があるのも、その時お世話になった人のおかげ」という。
その後、師匠の大山倍達から「そろそろ戻ってきたら」と東京・浅草に道場を開設して支部長になる。さらに2年後、師匠の急死で「生前の遺志」によって極真会館の館長に大抜てきされた。
「今は、日本よりヨーロッパなど海外で組織が拡大していますね」という。4年に一度の世界大会でも以前は日本人ばかりだったが、最近はロシアを核にルーマニア、ウクライナ、ポーランドなどが圧倒しているそうだ。
極真会館は、単一団体では世界最大で館員は、日本で5万人、海外で100万人にものぼる。
夢は「空手の世界統一で組織化していくこと」ですが、最高に難しい仕事で、やりがいがありますね」と笑った。
(吉澤信政記者)
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