Copyright 2008 YOMITIME, A Division of Inter-Media New York, Inc. All rights reserved


お特な割り引きクーポン。
プリントアウトして
お店に持って行こう!

イベント情報





他にショッピング、ビューティー、
企業情報なども準備中!

 連載コラム
 [医療]
 先生おしえて!

 [スポーツ]
 ゴルフ・レッスン

 NY近郊ゴルフ場ガイド


 [インタビュー]
 人・出会い
 WHO
 ジャポニズム
 有名人@NY

 [過去の特集記事]

 よみタイムについて
   
よみタイムVol.91 2008年6月20日号掲載
日本女子プロゴルフ協会会長  樋口 久子

国際女子スポーツ賞受賞の樋口久子さん
「日米の違い」目の当たりに
若手のスター選手育てる

 「私なんかがこんな賞もらっていいのかしら」とキョトンとした顔をして見せる。
 突然「国際女子スポーツ殿堂に選ばれた」と案内が届いて驚いたという。「こんな賞があるなんて知らなかったし、調べて見ると、すごい人が受賞しているんですね」。
 この賞は80年に創設され、女子ゴルフでは、ベーブ・ザハリアス(80年)、ミッキー・ライト(81年)、サンドラ・ヘイニー(99年)など大御所が名を連ねている。

 国内外で72勝したが、何といっても燦然と輝いているのは、77年にノースカロライナ州で行われた全米女子プロゴルフ選手権で日本人初のメジャータイトルを獲得した。
 今なら、マスコミが大騒ぎ。テレビ、新聞などトップニュースで報じられるだろう。ところが、日本人メディアはロサンゼルスから来たカメラマンがひとり。
 優勝の実感は「レストランでカメラマンが買って来てくれたワインで、通訳、ツアーを一緒にしていた佐々木マサ子さんの4人で乾杯した時でした」と30年前を振り返る。 
 世界もその実力を認めた。英語では「ひさこ」という名前が呼びにくいことから「チャコ・ヒグチ」と呼ばれ、世界ゴルフ殿堂の会員としてもこの愛称つきで登録されている。

 中学校時代までは陸上競技選手だったが、高校時代に恩師で日本ゴルフ界の育ての親、中村寅吉を知り、ゴルフへの関心を深める。高校卒業後、中村に弟子入りし、練習場のスタッフとして勤務する傍らプロ選手としての下積み生活を経験。67年に第1期女子プロテストに合格した。
 「女がプロゴルファーになってどうするの、と周りから反対されました」。それほど、女子プロは生まれたばかりで認知度はほとんどなかった。試合はわずか2試合だけ。68年の第1回女子プロ選手権で優勝、その後も2大メジャーを連覇するなど、70年から80年代にかけて、日本女子ゴルフ界の礎を築いた。
 「私の力って世界でどれぐらい通用するのだろう」という疑問がわいた。日本では敵なしでも、海外ではわからない。情報もあまりなかった。
 「一度、アメリカでやってみよう」と全米女子ゴルフの門を叩いた。年10試合だったが「日米の違い」を目の当たりにした。
 「芝が全然違うんです」という。日本のゴルフ場のほとんどはフェアウエイが高麗芝でグリーンがベント芝。米国のゴルフ場は、バミューダ、ティフトン芝など種類が多く、精度の高いショットが要求される。グリーンも速いため、アプローチの仕方も変わってくるそうだ。
 何より「環境の違い」が大きかった。言葉、食事、移動など全て通訳を頼んでやらなければならない。
 「賞金をもらっても、移動費や通訳代で消えてしまって」と笑う。
    ◇
 96年日本女子プロゴルフ協会会長に就任。97年に会長職専念のため競技の第一線を退き、後継者の指導に尽力する。03年に日本人初の世界ゴルフ殿堂入りを果たした。
 会長になってから、幾つも組織の改革に取り組んだ。そのひとつが新人教育で、フォアーキャディーやマーシャルなど裏方の仕事をさせることを取り入れた。「スポンサーや裏方など周囲の人に感謝の気持ちを知ってもらう」のが目的だという。
 今では、宮里藍、横峰さくら、上田桃子など若いスタープレーヤーが成長しているが「まだまだ、海外で対等に戦うには力不足。もっと、日本で実績をつんでからでも遅くない」とアドバイスしている。
 「これからは、キッズゴルフなどで子どもたちや女性にゴルフに関心を持ってもらい、世界に通用する選手を育てていきたい」などと話していた。
(吉澤信政記者)