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よみタイムVol.80 2008年1月11日号掲載

弁護士 ゲーリー森脇さん

日系人会新会長に就任
次世代のためにも力注ぎたい
少年時代の夢は宇宙飛行士

 ニューヨーク日系人会の新会長として1月1日に就任した。88年に日系人会に入会の後、89年に理事となり、02年から副会長を務めてきた。資産運用・管理の分野で25年以上のキャリアを持ち、チャリティーや個人ファンドの運営・管理や複数の国や地域にまたがる資産の運用や、相続に精通、現在はフォックス・ロスチャイルド弁護士事務所のパートナー。
 昨年9月に行われた、『日系人会100周年記念GALA晩餐会』では実行委員長の大役を果たす。また、長野スペシャル・オリンピック実行委員など幅広い活動を続けている。
 新会長としての抱負について「第一に、日系人会の広報活動・宣伝」が重要という。組織の名前が日系人会となっているため、外部から「日系アメリカ人のためだけの団体、あるいは単純に高齢者支援のための組織」と誤解されている面があるからだ。実際、多くのメンバーが高齢者となっているのも事実で、高齢者支援は重要な仕事のひとつだが「学生、アーチスト、音楽家とか、30代、20代の若い人たちで、日系人会を知らない人たちはまだまだたくさんいます。だから、次世代のためにも、これから若い世代の獲得に力を入れていこうと思っています」と話す。
 「第二にJAA(日系人会)の他にもJASSI、JAJAとか様々な団体が存在するけど、特に「JASSI」(青木博代表)とは是非、前向きに連携して活動できればと考えています」。また「総領事館や日系企業、日系非営利団体、その他たくさんの日本人団体との密接な交流も図っていくつもりです」と目標はあくまでも明確だ。
 実際のところ、日系人会を支える人たち、ボードの役員も、日系アメリカ人より日本生まれで、日本語が第一言語の人々のほうが圧倒的に多い。

 「ニューヨークの日本人の人口の9割以上が日本生まれの方たちですよね。知ってもらいたい人たちに、あまり日系人会の活動や実態が知られていないのは残念です」と悔やむ。
 昨年、日系人会創立100周年ということで、日系人会にしては大規模な記念祭(GALA)を開催したが、これも単に100周年だからということだけではなく「広く日本人社会に対して、GALAを通じて日系人会の活動をきちんと紹介したかったから」と話す。
 「前会長のスーザン大沼さんは、日系人会が持つ従来の誤ったイメージの払拭に、少しずつだけど取り組んでこられた。私もスーザン前会長のセクレタリーとして一緒にやってきたので、考え方はほぼ同じ。重要課題が何かはわきまえています。時間はかかるでしょうが」。

 「もうひとつ焦点をあてねばならないのは、世代の交代ですね。すでに『アップルキッズ』プログラムを取り入れて、子どもを持つ若い両親の参加が増えていますが、さらにもっと別の、いろいろある日本人グループと共同で課題に取り組む必要性を感じています。どっちみち、日本人社会は、注目を浴びてはいるけど、中国や韓国コミュニティに比べれば、まったく小さい存在で、助けあっていかねば、なかなか目的は達成できませんからね」。

 ゲーリー森脇氏は1948年、マンハッタンに生まれた。父親は南カリフォルニア生まれだが、いったん両親と日本に引き上げ、1938年にアメリカに戻った帰米2世。母は生粋の2世で、収容所の経験があり、死ぬまで怒りを消すことがなかったという。
 優れた教育を息子に、と願う母に厳しく育てられた。マンハッタンの公立小学校、中学校を卒業して、高校は名門ブロンクス・サイエンス。「宇宙にとても興味があって、真剣に宇宙飛行士になりたいと憧れました」。好きな教科は物理や数学、ブロンクス・サイエンスに入学したのも、宇宙飛行士への夢の実現に向けた第一歩だった。スポーツなどもほとんどやらず、毎日、読書と勉強に明け暮れたという。
 当時、宇宙飛行士を目指すには、空軍のパイロットになることが必須条件。米国空軍アカデミーを受験しようとしたが、視力の問題などであきらめざるを得なかった。 それでも進学したコロンビア大学では、初め「宇宙航行学」を学ぶ。急に目標を失い、何をしていいか分からなかったからだ。
 しかし、やはり授業に退屈を感じ、2年生を終えてポリティカル・サイエンスに方向転換。世は60年代の真っ只中、ベトナム戦争、人種対立、各地の暴動など、社会全体が騒然としていた。正義感に燃え、社会を変えるような仕事につきたい、と強く考えた。
 69年に番号によって外れがあったり当たりのある、数字によるドラフトカードが届き「151番だったな、今でも覚えてる」70年9月に予備兵として呼ばれた。基礎訓練と上級訓練を受けたあとは、ホームユニットに戻ることができ、マンハッタンに戻った。あとは、自宅待機みたいなもので、予備兵としてのサービスは6年に及んだが、その間、コロンビア大学を卒業し、ブルックリン・法科大学院を卒業、かつて宇宙飛行士を目指した少年は、はれて弁護士の世界へ飛び立った。

 歴代の日系人会会長で、職業的に現役バリバリというのは大沼前会長を除くと、そう多くはない。「時代は変わっても、日系人会の役割は、新たに移住してきた日本人を支援する団体です。まずコミュニティーのニーズに応えることが大事」と言い切る。
 「今年は年男、還暦になっちゃうんだけど」とはにかむが、まだまだ、体力・気力が体中から漲っている。
 81年に始めた沖縄小林流空手は現在6段。弁護士の仕事に加えて、日系人会の新会長に就任と、多忙な毎日が続きそうで、当面、道場で汗を流す時間は、「難しいでしょうね」とちょっぴり淋しそう。
(塩田眞実記者)