水野料理長の1日料理教室
講師:水野五十一
料理学校名:The Institute of Culinary Education
住所: 50 W. 23 rd St.
日時:12月15日(土)10:00am〜3:00pm
参加費:100ドル
詳細: www.iceculinary.com
ICE料理学校の電話番号:
212-847-0700(内線0で受け付けに)
シェフ水野の連絡先:718-997-0425
[ 当日のメニュー ]
料理に合わせたワインがサーブされます
・帆立貝のグラタン
・マグロのタタキ風 胡麻ドレッシング添え
・ブイヤーベース スープ
・若鶏のソテー、プロバンサル風野菜添え
・ホットスフレー グランマニエー風味バニラソース添え
・コーヒー 又は 紅茶 |
巨大なキッチン。パーク街からレキシントン街につながり、49丁目からでも50丁目からでも出入りできる。世界でも指折りのホテルのキッチンである。
シェフだけでも150人。そのトップとして采配をふるう。インタビューの間にも「シェフ、ソースの味はこんなもんでいいですか」「テーブルクロスはこんな感じでいいでしょうか」などと聞きに来る。
今年6月から「古巣」に戻った。実はウォルドルフ=アストリアホテルには72年から81年までの9年間シェフとして働いていた。1975年10月昭和天皇ご訪米の時も働いていたが、シフトが違っていて残念ながら「天皇の料理番」にはなれなかった。しかし、ルームサービスを頼んだおり、ルーム係が書いた「Emperor
HIROHITO」のサインは今も大事に持っているという。
昨年の8月まで20年間勤めていたプライベートクラブ「ニューヨーク・アスレチッククラブ」を退任した。「自分をもう一度、見つめ直したかった」からだ。しばらくは「フード・コンサルタント」として顧客の要望に応えていたがそんな時、かつてウォルドルフ・アストリアホテル時代の上司だった元総料理長と世間話しをしているうち「ウォルドルフで料理長を探しているんだ。やってみないか」と提案され
た。総料理長はかつて自分と一緒に働いていたジョン・ドティ氏だ。懐かしい名前だった。
ジョンとも会って話しているうちに「いつから来てくれるのか」と正式に返事もしていないうちにいつの間にか「仕事の段取り」まで話がはずんだ。
1948年名古屋市北区で生まれた。7人兄姉の末っ子だった。五十一は「絵付け師だった父親が数え51歳の時に生まれたから」だそうだ。
地元の高校を卒業後、名古屋国際ホテルにコック見習いとして入った。本心から料理に興味を持っていて、他の職業は考えてもいなかった。だが、昔気質の父親は「料理人はやくざの仕事」と反対したという。
元々、器用で教わったことはすぐ覚える。技術もメキメキ上達する。ある日、先輩シェフから「本当の料理人を目指すなら原書でフランスの料理本を読め」といわれ、
10センチはありそうな本を購入した。当時の月給の半分の値段だった。もちろん、フランス語など出来ない。辞書と本のにらめっこの日が続いた。
おかげで、料理や食材の名前などフランス語で読み書きできるようになった。「普段作っている料理と本に載っている料理の写真とでは、随分違うのには驚きました」と懐かしむ。
4年間があっという間に過ぎ去った。「外国に行って働きたい」の想いが日増しに強くなってきた。だがフランス料理を学んではいたが「フランスに行きたい」とは思わず、「目指す国」はアメリカ、ニューヨークだった。
そのころ、アメリカ行きのビザが取れず、仕方なくカナダのモントリオールに渡った。カナダはビザなく入国できたからだ。貯えは多少あったが、モントリオールはフランス語圏。「自分の勉強したものを試してみよう」と飛び込みでフレンチ・レストランの門を叩いた。最初、オーナーは言葉もろくにわからない日本人青年にいぶかし気な表情を見せたが、テストとしてイモやタマネギを剥かせると器用で、誰よりも早かったことから「給料は払えないが、食事は保証するよ」といわれた。
何をやらせても仕事が早く、魚のさばき方、肉の扱い方なども他のシェフより優れていたため、仕事を積極的にやればやるほど、他のシェフから
煙たがられた事もあったという。
「夢のニューヨーク」に来たのは70年12月7日だった。知り合いのシェフが日本食レストランで働いており「グリーンカードを取ってあげるから働いてみないか」だった。
約2年働き、グリーンカードを取得して、自らウォルドルフ・アストリアホテルの門をくぐった。当時、帝国ホテルと提携していたこともあってか、即時採用された。81年までの9年間、総合シェフとして多くのものを学んだ。
その後、ヘルムズリー、プラザホテルで「力をつけ」、NYアスレチッククラブでその名を広めた。2人の孫がいる「おじいちゃんシェフは」今人生で一番、楽しく仕事をしているのかも知れない。
(吉澤信政記者)
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