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 よみタイムについて
 
 
よみタイムVol.142 2010年8月6日号掲載
RN看護婦 田村 波津枝
信念の看護哲学
海外在住日本人の強い味方

コロンビア大学卒業式の日にキャンパスで

平安神宮で結婚式(夫のジョンさんと)

 集中治療室(ICU)。病院の中でも重篤な急性機能不全の患者の容態を24時間体制で管理し、より効果的な治療を施すことを目的とする施設で、日本人看護師を見ることはきわめてまれ。その最前線で高い経験と知識を基に、常に患者の立場に立って文字通り日夜奮闘する看護婦さんがいる。

 田村波津枝さんの看護哲学は「もし自分が患者だったらしてもらいたいこと」を信念としている。担当時間内には受け持ちの患者にオムツはつけさせない。
 「私は、たとえ下痢のある患者さんでも、オムツをつけさせずに何度でも根気よく衣服を着替えさせてあげるんです。オムツは床擦れの元、患者さんだって清潔な衣服がいいに決まってる。汗臭ければ身体を拭いて何度でも着替えさせます。髪の毛だって臭うのは患者自身はもちろんのこと家族だって嫌ですよね。部屋も清潔な匂いがすれば訪ねてくる人も気分がいい」。しかし、わかっていてもつい手間を惜しんでオムツを使う看護師も多いという。「それと退院したら周囲が過度に病人として扱わないことが大切です。動かないと益々動けなくなりますからね」。

 田村さんがコロンビア大学の看護科を卒業したのは82年のこと。
 高校を卒業すると迷わず世界屈指の看護学看護科(ナーシング・サイエンス)を持つコロンビア大学に進んだ。当時日本では看護科を持つ4年生大学は数えるほど。
 英語で看護を学んでおけば世界の医療現場で患者のために働くことが出来るという思いもあり、どうせならと世界最高水準のコロンビア大学を選んだ。同期入学125人の中で一人だけの外国人学生だった。
 「クラスメートは週末天気がいいとみんな公園に出かけて行く。私は得意でもなかった英語で分厚い本を読んでレポートを書かなくてはならない、他の人の何倍も勉強しないとついていけないんです」と天気のいい日はカーテンを閉めて机に向かった。当時、コロンビアの看護科は人気があり、プリンストン大やジョンズ・ホプキンス大を卒業してから再入学してくる学生もいたほどだ。「80年にジョン・レノンが撃たれてみんなが遭難現場のダコタハウスに走った。私も行きたかったけど、ちょうど中間試験の最中、ぐっとこらえて我慢したんです」と当時を思い出し懐かしそうだ。
 ホームシックにかかるとアパートの窓からハドソン川とニュージャージーの切り立った崖を眺め、故郷徳島県阿南市の半島を思い出して涙を拭いたという。
 猛勉強の甲斐あって、めでたく卒業するとすぐコロンビア大学病院の脳外科ICUに採用される。長い看護婦の人生がスタートした。普通、新卒者が難しい判断を求められるICUに採用されることはない。田村さんのひたむきな努力が指導医師たちに認められた証でもあった。間もなく永住権をコロンビア大学病院の負担で取得。
 「最初に難しい脳外科のICUを体験しておけば、あとが楽になるだろうと思ったのが志望した理由なんです」。
 「英語での現場の仕事は予想以上に厳しかったですね。ICUには脳外科だけでなく内科や婦人科の先生なんかも来ますしね、発音ではほんとに苦労しました」と苦笑する。
 「でもコロンビアは素晴らしい所で看護エリートの集団、医者も看護婦も力をあわせてホントに患者さんのために仕事してましたね」。医師による部内医療スタッフへの日々の研修会も盛んでこの時代に多くを学び、医師のいない間の患者の容態の把握、病名の決定などにも積極的に関与した。

 93年に脳神経内科の医師であるご主人と結婚。結婚式は京都の平安神宮、同僚・友人のアメリカ人たちが16人も京都の旅館に泊まって式に参列してくれた。
 翌年の94年に自分の名前を冠した「HTRコンサルタント」を設立。
 理由は病院勤務を続けるうちに日本人患者の通訳やケアを頼まれることが増えたこと、本格的に海外で困る日本人患者の役に立ちたいという思いが募ったためだ。
 HTRコンサルタントは、日系企業の進出に伴ってビジネスマンや政府関係者さらにその家族などに知られるようになり、総領事館からの要請もたびたびあって日本人の患者を無事に日本まで送り届ける仕事や南米ブラジルなどにも患者を迎えに行くなど行動範囲は飛躍的にグローバルになる。コンサルタントとしての田村さんの強みは、世界最高水準のコロンビア大学病院時代に培われた医療ネットワークだ。田村さんには脳外科を始め、脳神経内科、循環器、心臓外科、産婦人科など、それぞれの分野で権威と呼ばれる名医との個人的なつながりが出来上がっていた。
 普通なら看護婦が出席することはまずない医学会に招かれたり、ヨーロッパの優秀な医師たちとの交流も生まれた。アメリカでの講演に日本から招かれる日本医療の権威たちを直接世話する機会も多く、いつしか田村さんの医療ネットワークと人脈は誰にもマネできないほど成熟していたのである。医者の指示に従って医療器具を抱えて東奔西走を続ける日々が続いたが、医師である夫の日本への転勤、さらに911テロ以降、医療器具の機内持ち込みが厳しく制限されたことなどから会社はひとまず閉鎖した。その後、日本に4年、オーストラリアに1年住んだ後、06年にニューヨークに戻り職場復帰のための研修を受けて07年から新しい医療現場であるルーズベルト病院のICUで勤務を続けている。
 「看護の仕事はやはり医療現場ですね。忙しいけど毎日が充実しています」と目を輝かせる。週に3日の勤務。週末はアップステイトの「カントリーハウス」での野菜作りでリフレッシュ。若い頃から続ける趣味もエネルギー源だ。お琴、お花、お茶は今でも欠かさない。「毎週月曜日は日系人会でお花を教えてます。興味のある方是非いらしてくださいね」とにっこり笑った。
(塩田眞実記者)