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CD化された「AT CARNEGIE HALL」 |
NYジャズ界屈指のベーシストといわれる中村照夫率いるバンド「ライジングサン」。79年にカーネギーで単独公演した時のライブ盤「ライジングサン・バンド・アット・カーネーギーホール」というアルバムがこのほど発売された。
この時のライブは一度レコード化されて同じ年にリリースされているが、今回再マスターされ初のCD化が実現したもの。当時最強ともいえるメンバーが結集、豪華かつ実力派の安定した演奏は見事で、中村のベース・テクニックの冴えはひときわ存在感を放っている。
ジャズの専門家に言わせるとサックスのボブ・ミンツァー、スティーブ・グロスマンが同じステージで夢の競演を果たしたのは「あとにも先にもこの中村のカーネギーの舞台だけ」とあって、ジャズファンにはたまらない記念碑的なCDとなっている。
中村照夫は、日本人としては誰よりも早くニューヨークのジャズシーンに飛び込んだ。渡米してからずっとニューヨークを本拠地として活動を続けている。その後多くの日本人ジャズミュージシャンがニューヨークを目指したが、中村はまさに草分けの存在だ。
エイズ・アウェアネス・コンサートを長く続け99年に「第24回南里文雄賞」を受賞するなど、日本での仕事も数多く手がけてきた。
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若さとガッツだけを頼りに、まったく無名のまま渡米したのは64年5月、22歳の時だった。日本はちょうど東京オリンピック開催に向けて沸き返っていた。
「そういうものには全然関心なかったんだよ俺。とにかく本場のジャズが聞きたくて来たんだ。ミュージシャンになりたいなんて大それた目標すらもなかったな」と振り返る。
出たとこ勝負と飛び出したものの初めは厳しい現実が待っていた。生活のため、皿洗いや、OCS社で始まったばかりの日本の新聞の配達要員として奮闘した。配達員仲間には後の天才サックス奏者スティーブ・グロスマンやコルネットのオルー・ダラーなどもいて、毎日日系企業に日本の新聞を届けていたというエピソードが面白い。
「新聞配達は俺たちの原点なんだよ」と中村は笑う。若いジャズマンたちは夜遅く配達の仕事が終わるとジャズスポットへ向かう。幸いジャズの現場は夜が遅い。音楽の仕事を終えて帰宅するともうぐったり。それでも「配達の仕事は午後からなんでゆっくり出来た。ミュージシャンにはとても好都合だったね」。
ジャズの最前線で徹底的に揉まれながら、69年にレニー・ホワイト、ジョージ・ケイブルス、スティーブ・グロスマンらと最初のグループを結成。70年代にテナー・サックスの巨人スタンリー・タレンタインのバンドに参加。このころから「自分の腕で喰う」自信が生まれたという。
さらに中村の勢いは増し、77年アルバム「マンハッタン・スペシャル」はキャッシュボックスの全米ヒット・チャート10位まで上り詰める。80年代にはおもにプロデューサーとして活躍、90年代以降は「Roots
やPM Damn」らに楽曲がサンプリングされるなど、クラブ・ミュージック・サイドからの再評価を受け人気が高まった。
これまでに共演したビッグネームには、日本でもよく知られたところでスタンリー・タレンタイン、ロイ・ヘインズ、スティーブ・グロスマン、ボブ・ミンツァー、ジョージ・ベンソン、ヘレン・メリルなどがずらりと顔をそろえる。
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「アット・カーネギーホール」収録の最初の曲は、中村の名前を一躍押し上げた「マンハッタン・スペシャル」。続いて中村とスティーブ・グロスマンとの共作によるアップテンポな「ライジングサン」、キーボードのマーク・グレイが作曲したファンクなウィグル・ワーム、そしてハイライトでもありドラマチックな展開を見せるハリー・ウィテカーの「ステッピン・ウィズ・ロード」と続く。
いずれも生まれたばかりのフュージョン・サウンド、しかも日本人がリーダーであるバンドが、当時は音楽の殿堂とまで言われたカーネギーホールで観客を沸かせていることに改めて新鮮な感動を覚える。グロスマンやボブ・ミンツァー、ゲスト出演のランディ・ブレッカーのソロも若々しくて聴き応えがある。
ジャズ好きで型破りの作家、故中上健次は次のような言葉を残した。
「雪のニューヨークで、小説家いや小説野郎がジャズ野郎と逢った。このジャズ野郎、中村照夫という名前、実にいい顔をしている」(集英社刊・「破壊せよ、とアイラーは言った」より)。
ここ最近の中村は自身のレーベル「チータ・レーベル」をポニーキャニオンを通して本格的にスタートさせ、昨年暮れから矢継ぎ早に6枚のアルバムをリリースしている。ビル・ウェアやバリー・フィナティ、ボブ・ミンツァーなどのトップアーチストによるニューヨークジャズのエッセンスをダイレクトに日本に伝え、これからのジャズの方向性を日本のジャズファンに発信している。「確かに今時代は冷え込んでるけど、手をこまねいてるわけにはいかないんだよ。誰かが貴重な音を残さなくてはいけないしね」。常に数年先を見据えて仕事をしてきた嗅覚は確かだ。衰えなど微塵もない。
(塩田眞実記者)
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