昔の仲間がひとつになった |
今でこそ「寿司」は国際的な日本食として、「市民権」を得ているが、70年代は「寿司専門店」はほとんどなかった。
そんな中、75年4月1日、48丁目の5番街とマディソン街の間に寿司専門店「竹寿司バンブー」がオープンした。オーナーは松本紘宇(まつもと・ひろたか)ら3人。パートナーとして川田隆三郎が加わった。川田と松本は「レストラン日本」でキャッシャー、仕入れ係りとして働き、気心知れていた。
「本格的な寿司店をやろう」を有り金をはたいてオープンにこぎつけた。「日本食ブームのはしり」ということもあって、店は繁昌した。その後、バンダービルトの45丁目に移転したが、93年に店を閉じるまで、ウエストサイドに「竹寿司魚菜」、ロングアイランド、ウエストチェスター、さらにワシントンDC、トロント、ベルギーなど実に7店舗を構えるまでになった。
順風満帆な「成功者」と思われるが、本人は「挫折の人生」という。
47年、栃木県足利市に生まれる。父親は地元で繊維関係の会社を経営していた。だが「人生に目標を持てなかった」と幾つかの大学を受けても不合格だった。
義理の兄がニューヨークで日系企業の駐在員として赴任していたことから父親に「大学に行かないから」と80万円をもらい義兄を頼って、ニューヨークにやってきた。68年の春だった。
自立していかなければならなかったため、昼間は繊維会社の在庫管理の仕事をし、夜はレストラン日本で働いた。レストランビジネスに興味をもっていたが、フランス語、ドイツ語、英語を学んでヨーロッパで「旅行会社」経営の憧れもあった。「お金をためてフランスへ行こう」と昼夜働いた。
71年フランスのニースに渡り、2年間生活した。しかし、思い通りにはならなかった。「挫折」をしみじみ味わいながら再び、ニューヨークに戻ってきた。そんな時、レストラン日本で一緒に働いていた松本紘宇と出会い、レストラン開店の話が進んだ。
「仕入れのノウハウはあるし、寿司職人も何人かは知っている。いいネタで寿司専門店をやれば、成功する」の自信はあった。ニューヨークでも屈指の寿司職人といわれた上津利熈(うえつ・としひろ、現車寿司オーナー)らをスカウトしてオープンした。「本物の寿司の店」としてまたたく間に有名になった。後年、松本は「ニューヨーク竹寿司物語」を出版、当時の苦労話しをつづり、ベストセラーになっている。
川田は、松本と意見の食い違いなどがあり、竹寿司から手を引いて「シーフード・アトランティック」を設立、ニューヨークのレストランなどに新鮮な魚を卸したり、丸紅との合弁会社「アラスカ水産」も立ち上げ、日本にウニを輸出するなど、新しい道を歩んだ。
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だが、いつも脳裏には全盛期のころの竹寿司が離れない。
「皆とまた一緒に仕事がしたい」。
そんな矢先、54丁目2番街の寿司店「御」のあとを「テークオーバーして欲しい」と知人から持ちかけられた。「御」のオーナーはアメリカ人で、竹寿司時代の常連客。川田もよく知っている人だ。「よし、やろう」とさっそく、昔の仲間に声をかけた。
小林たかし(77年竹寿司入店)、諸橋浩三(同90年)、川崎益夫(同79年)、西川信二(同81年)、それに00年に入店の八巻善一が集まった。
75年に竹寿司が開店して以来週3、4回の「魚河岸参り」は欠かさない。がっちりと魚屋と太いパイプで結ばれている。
「いいネタをいかに安く仕入れるかですよ」と自信満々に話す。
金融危機の最中、高級寿司では勝負出来ない。「美味しい寿司をリーズナブルな価格で提供しないと。それには、ネタが全てですからね」。
カウンターを含め、わずか40席の小さなレストランだが、昔の仲間たちはひとつになって、竹寿司の再生に燃えている。
=文中敬称略=
吉澤信政記者)
竹寿司:1026 2nd Ave.(at 54th St) Tel 212-355-3557
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