2023年12月15日号 Vol.460

泡沫(うたかた)が招く末世
悪しき指導者たちの嘘に乗るな(1)
国際ジャーナリスト・内田忠男


2024年を迎えようとしている今、世界中に分厚い暗雲が垂れ込めている。凶悪な砲弾や弾丸が乱舞している。不条理の壁が林立している。どう考えてもまともでない。不快の極だ。
 
原因はさまざま……国家権力独占への指向が強まっている。普遍性のない理念を暴力的に振り回し、国境を犯し、国際人道法など無きもののように軍事力を行使して国際社会の現状を勝手に塗り替える。そこへの収斂を策す「覇権主義」が大手を振って横行する。企業や個人レベルでは、身勝手な貪欲が渦巻き、市場原理の機微をついて不当に近い利益を独り占めしようとする手合いが多い。汗水垂らす労働の成果ではない。ネット上で頃合いを見計らってクリックするだけの不労所得である。

気候変動による居住環境の待ったなしの悪化、貧困・格差の広がり、展開を早める人工知能の弊害が多く語られる……人類が抱える課題は山積しているのに、「最大多数の最大幸福」に向けた統治理念が軽んじられている。ヒトとヒトをつなぐ他者への思いやりが希薄になっている。
 
いささか乱暴に集約するなら、今の世界では、多くの政治指導者が劣化・悪質化している。高邁な理想を少しでも現実化しようとする指導者は、ごく少ない弱小の国以外には一人も見当たらない。
 
新しい年を迎える時期に、どう見てもそぐわないかも知れないが、本稿では、そうした「悪しき指導者」をあげつらって徹底批判して行きたい。そうせざるを得ないほど、世界は「末世」に近づいていると考えるからである。(文中敬称略)
私事:本稿を名古屋大学医学部附属病院の特別病室で書いている。11月12日、全身に赤斑が広がり痛痒さに我慢がならず緊急入院した。当初は、帯状疱疹から猿痘まで疑われた感染症警戒で減圧室に収容され、4日後にようやく疑いが晴れて特別病室に移ることができた。下された診断は、EGPAという。難病情報センターの文書には「従来、アレルギー性肉芽腫性血管炎などと呼ばれてきた血管炎症候群で、臨床的特徴は、先行症状として気管支炎喘息やアレルギー性鼻炎がみられ、末梢血好酸球増多を伴って血管炎を生じ、末梢神経炎、紫斑、消化管潰瘍、脳梗塞・脳出血・心筋梗塞・心外膜炎などの臨床症状を呈する疾患である」と書かれ、当方の症状にしっくり適合するとは思えないのだが、patient=患者としては、patient=忍耐で医師団の指示に従うしかなさそうである。


新しくなった正面玄関 (Photo Credit: Fernando Sandoval/MW)

病床に身を横たえた私の脳裏に、鎌倉時代に鴨長明が著した『方丈記』の冒頭部分が突如まとわりつくように浮上した。

<ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし……朝に死に、夕べに生まるるならひ、ただ水のあわにぞ似たりける……無常を争ふさま、いはば朝顔の露に異ならず。あるいは露落ちて花残れり。残るといへども朝日に枯れぬ。あるいは花しぼみて露なほ消えず。消えずといへども夕べを待つことなし>

お読みになれば分かる通り、これは「世の無常」を書いた名句だが、難病の底に沈んで自らの終わりを意識せざるを得なくなった私に、今日の世界状況となぜか二重写しの無常感として迫ってきた。初読から70年近い歳月を経たのに記憶は正確であった。

要するに、今の国際情勢はヘボで下品で身勝手で暴力的で無秩序な泡沫(うたかた)の争いなのである。こんな泡に、世界を終わらさせてはいけない。

私は、60年以上も前の1962年にジャーナリズムの道に入った。16年間の新聞記者生活から、テレビ・アンカーに主体を移し、2004年以降はフリーランスとなった。活発に活動したのは、日本が戦後の復興を終え、力強い高度成長期に入って世界第2の経済大国となり、狂乱のバブル経済期を経て、東西冷戦が終結した国際社会ではグローバル化が急速に進み、日本は対応に遅れが見られたとは言え、それなりの存在感を発揮してきた……そんな時代だった。

自分で言うのも何だが、それなりに真摯に幅広く、歴史に照らしながら正邪の判断力も駆使して世界を見てきた、との自負はある。

そんな私が、「世界が間違った方向に動き出した」と実感したのは、21世紀が明けた頃からであった。


プーチン
確信犯の絶対悪


前年、冷戦終結で敗者の色が濃かったロシア連邦にウラジーミル・プーチンという大統領が出現していた。ソ連邦のスパイ機関KGBの少壮将校として、東側陣営の優等生との評判が高かった東ドイツのドレスデンに駐在。しかしそこで1989年の東欧革命とベルリンの壁崩壊という現実に遭遇する。東独は1年も経たずに西独に吸収合併され、あろうことか、プーチンが忠誠の柱とたのんできたソ連邦が91年末に解体消滅してしまった。

90年にKGBを辞して故郷のレニングラード(現サンクトペテルブルグ)に帰り、同市ソビエト議長サプチャークの国際関係顧問となって政界入り。92年5月には市長になったサプチャークの副市長となり、「灰色の枢機卿=影の実力者」の地位に上ったが、その権勢は長くは続かなかった。96年市長選挙でサプチャークが落選してしまったのである。

しかし、このことがプーチンに出世の道を開いた。ボリス・エリツィン大統領の大統領府総務局次長としてモスクワに移った彼は、翌97年には大統領府副長官兼監督総局長となる。99年8月には第一副首相に任命されたが、その日にステパーシン首相が解任されたので、「首相代行」のタイトルを与えられ、1週間後には「首相」となった。

ゴルバチョフに逆らう急進改革でロシア連邦大統領の座を固めたエリツィンだったが、次第に求心力を失っていた。首相代行に起用した時点でエリツィンは、プーチンを後継者に指名していた。となれば、プーチンにとって、あとは我が道。高層アパート連続爆破テロに端を発した第2次チェチェン紛争に辣腕を振るって制圧。「強いリーダー」の出現を待望していた有権者の人気を集め、2000年大統領選では第1回投票で過半数の票を獲得、当選した。51歳。KGBエリート出身の陰険で強権の大統領の出現であった。

プーチンの政治姿勢は「強いロシアの再建」に尽きる。帝政ロシアからソ連時代の「超大国」に強い思いを残すプーチンは、冷戦の勝利者顔で「改革」を迫る西側諸国に強い対抗心を燃やした。それはもう敵意に近い。急進的資本主義化を主張する新興財閥オリガルヒともことあるごとに対立を深め、従わないものは躊躇なく粛清した。財界だけではない。言論界、政界でも反プーチンが明らかな人物が多数非業の死を遂げている。これまさにKGBの手法である。権力の維持強化に向けては、当時のロシア連邦憲法が大統領の3選を禁じていると、08年選挙で腹心のメドベージェエフを大統領にして自らは首相職となる便法を講じて事実上の権力を掌握、その間に憲法を改正して多選を可能にした。12年選挙で大統領に復帰する。

そして14年、黒海沿岸の保養地ソチで冬季五輪とG8サミットを開催する誇り高き年、五輪後の3月に合法性を大いに疑われる住民投票でクリミヤ併合を強行、91年のソ連崩壊・ロシア連邦成立後初の本格的な領土拡大を実現した。それと引き替えにG8参加資格を失い、西側諸国との対立が決定的となるが、あくまで「既定路線」だった。

クリミヤ併合だけでなく、ロシアと国境を接するウクライナのドネツク、ルガンスク両州にも、ロシア系住民による「人民共和国」を作らせて新たな併合への足固めを始めていた。そして22年2月24日、「特別軍事作戦」の名目でウクライナに軍事侵攻を始めたのだった。電撃作戦でウクライナ政権を倒し、傀儡国家を打ち立てる計略だった。

「拡大主義」――自国領を拡張こそするが、縮小など考えもしない。かつてのソ連が日本の無条件降伏後に国後・択捉など北方領土を不法に奪い去った行為についても、安倍晋三・元首相とは26回も首脳会談を重ねながら、一方的に日本の国費を費消させて、返還どころか、軍事的にも経済的にも自国領への既成事実化を粛々と進めただけだった。

この男はアタマは良さそうだが、本物の教養に欠ける。嘘を繰り返して事実に見せかけ、事態を正当化させるのが常套手段。これもKGB流だ。人道無視の「絶対悪」と断ずる以外、評価の下しようのない独裁権者であり、世界情勢に重大な支障をもたらす元凶の一人である。


2023年3月20日から22日まで、ロシアを訪問しウラジーミル・プーチン大統領(右)と会談を行った中国の習近平国家主席(2023年3月21日撮影)Putin welcomes Chinese President Xi Jinping to Moscow, 21 March 2023; Presidential Executive Office of Russia / CC BY 4.0

習近平
「大中華」への夢


中華人民共和国の習近平は、中国共産党中央委員会総書記、党中央軍事委員会主席、国家中央軍事委員会主席、国家主席を総覧する絶対独裁者である。

8大元老の一人とされた習仲勲を父に1953年6月、北京で生まれた。66〜76年まで続いた文化大革命で父が迫害され、彼自身も4度投獄されたが、下放期間中に共産党に入党、中学1年以降は正式教育を受けていなかったが、模範的労働者・農民の推薦制度で精華大学化学工程部に入学を許され、79年に卒業。98〜02年にかけ同大学大学院で法学博士の学位を得たが、海外メディアからは論文の代筆疑惑が伝えられている。一見真面目だが機を見るに敏・自己本位の狡猾さが窺える。この間、00年に福建省長、02年には浙江省党委員会書記に就任、次第に頭角を表し、出世を確定的にしたのは07年3月に上海市党委員会書記に就任したことだった。

当時の上海市は大規模汚職事件で揺れ、党幹部が軒並み更迭される状況下にあった。習近平は、先輩官僚らの汚職摘発に力を入れ、07年11月の第17期党中央委員会で、2階級特進で事実上の最高指導部である中央政治局常務委員の座を射止めた。

この頃から、「世界4大文明の中で中断せずに続いているのは中華文明だけだ。この誇りを糧に外国勢力に蹂躙された19〜20世紀の100年間の屈辱から偉大な復興を遂げなければならない」と強い決意を示すようになる。大国主義・覇権主義の原点と言って良い。

12年11月、第18期1中全会で、晴れて党中央委員会総書記と、党中央軍事委員会主席に選ばれ、名実ともに最高指導者となった。90年代に鄧小平が「社会主義市場経済」を提唱して開放体制に乗り出した中国経済は、2010年にGDPで日本を追い抜き、世界第2の経済大国になっていた。「アジア最強の大国」の指導者の座を手にした得意、思うべしである。

17年には、「新時代の特色ある社会主義思想」とした「習近平思想」を党規約に明記して、毛沢東以来の個人崇拝を前面に押し出した。対外的には、参加する国々に膨大な「債務の罠」を仕掛け、返済不能にして中国中心の経済ブロックを強制的に形成する「一帯一路」をはじめ、「人類運命共同体」「強国」「強軍」と言ったフレーズが党規約にふんだんに盛り込まれる。東シナ海や南シナ海では国際法を無視した「現状変更」の動きを公然化する。国内自治区の少数民族に対する過酷な人権侵害の批判にも、断じて答えない。悪意の塊である。

23年10月に北京で開いた「一帯一路首脳会議」では、出席したロシアのプーチンとの強い結束を打ち出し、中ロ包囲網を敷こうとするアメリカへの対抗心を隠そうともしなかった。プーチンも「一帯一路」にかける中国の構想を称賛した上、「現在の国際状況下では、緊密な外交政策での協調が特に必要」と関係強化に特別な意欲を示した。ただ、ここに来て中国経済が大幅に後退色を強め、「一帯一路」が必ずしも安泰でなくなった。習は会議の基調演説で、欧米諸国が日本とも協力して半導体などで対中包囲網づくりを進めているのを念頭においた上で、「一方的な制裁や経済的な脅迫・デカップリング(分断)に反対する」と強調した。

内政面でも異常が見え隠れする。23年後半になって、外相、国防相が相次いで消息不明となり、粛清された可能性が否定できない。10月には、かつて首相としてコンビを組み、3月にその座を退いたばかりの李克強の死去が伝えられた。近年は経済政策などを巡り確執も伝えられていただけに、死去の裏に習側の何らかの行為があったのではとの疑いさえ浮上している。

既に国家主席の任期制限を撤廃し、「終身皇帝」になり得る制度的裏付けも得ているが、建国の祖・毛沢東に比べて懸念が募るのは、あのヘンリー・キッシンジャーが「これまで会った中で最も深い感銘を受けた人物」と喝破した周恩来のような賢明・篤実な側近がいないことである。

習近平が強欲・独断・孤高・無慈悲の独裁者であることは言うを俟たないが、成り行きによっては、習の野望が中絶の憂き目に遭うことも視野に入れておく必要があるかも知れない。(次ページへ)

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