2020年11月27日号 Vol.387

PAAFF上映作品
串田壮史 監督 「写真の女」

11月5日から15日まで、オンラインで行われた「第13回フィラデルフィア・アジアン・アメリカン映画祭(PAAFF)」。フィラデルフィアでのプレミア上映となった日本映画「写真の女」は、脚本も手がけた串田壮史(くしだ・たけし)監督にとって初の長編作品。


PAAFFで公開された串田監督(右)のインタビュー(https://www.youtube.com/watch?v=ejTa_DXFWL8


あらすじ(オフィシャルサイトから):時が止まったような父の残した写真館で、レタッチ(写真の加工修正)を行う女性恐怖症の男・械(50)は、ある日、体に傷がある女キョウコと出会う。械はキョウコに頼まれ、画像処理によって傷のない美しい姿を生み出す。その姿に魅了されるキョウコであったが、心の奥底で、自分の存在が揺らぎ始める。理想の自分と現実の自分、二つの自分の溝に落ちたキョウコは、精神的混乱に陥ってゆく。やがて、完全に自分を喪失するキョウコ。もはや、自分だけがキョウコを救うことができると感じた械は、死を覚悟して、女を愛する決意をする。


レビュー:
男が「修正」したものは、写真ではなく現実。

タイトルの通り、この作品のテーマは「写真の女」だ。ありのままを写しだすカメラにとっての強敵はレタッチ(修正)だが、自由自在に修正可能な写真は、「真」を「写す」という根本的な役割を逸脱、現代社会において、オブジェクトを変形させるための素材に過ぎない。その修正を生業としている無言の男(械)と、体に深い傷を持つミステリアスな女性(キョウコ)による、不自然で不可解な関わり合いが、本編の骨子となる。

ストーリーは、森で昆虫の写真を撮り歩いていた械が、頭上の木から突如として現れるエキゾチックなキョウコと出会うところから、螺旋階段を上っていくかのようにじわじわと展開していく。このアンバランスな二人は、明らかな恋愛感情を提示し合うこともなく、秒針のように空間と時間を共有しながら時間を進めていく。

そんな彼らの距離感を縮めるのが「写真修正」だった。女は体の傷を消去させ、男はその欲望のために、レタッチャーとしての技術を提供する。イメージ先行の時代において、より美しく見せることは、地位向上のツールであり、ビジネスにも繋がる。インフルエンサーのキョウコにとって、無傷の容姿は何よりも大切なのだ。「仮想の美」を推進するソーシャルメディア(SNS)は、作品の中でも価値観のバロメーターとして使われている。



同作品において、欠かせない名脇役がいる。それは「カマキリ」だ。映画のクレジットにも「カマキリ指導」のエキスパートが名を連ねるほど重要なパートを担っている。本編でも描写されるが、この昆虫は交尾中にメスがオスを食べてしまう習慣がある。その献身ぶりは、械がキョウコのために、より完璧なイメージを作り出そうと、画像修正する姿と重なる。

さらに、一癖も二癖もある、もう一組の男と女が登場。娘を亡くした近所の葬儀屋の男(西条)と、お見合い写真を撮る、というよりも修正に来る女(ひさ子)だ。トラウマやコンプレックスを持つ彼らは、言い換えれば「心のレタッチ」が必要な人間だった。そんな彼らが、械とキョウコと関わりを持つことで、次第に「修正」されていく。それは、我々が共存するこの世界の中で、互いの中に「自分」を反映させ、自己とのギャップを埋めていく作業にも見える。

仮想社会においては、SNSで発言する自分、自らが投稿するイメージの自分というのは、必ずしも本来の自分ではないことが多い。さらに、その「溝」は、他人の評価によって左右する。誹謗中傷などは、その顕著な例で、致命的なダメージを受け、社会復帰できなくなる話も少なくない。

映画は華麗な美しいキョウコのダンスと、雌のカマキリが雄を喰う残酷なシーンでクライマックスを迎える。このエンディングこそが、串田監督がこの映画で秘めた叫びだったのではないだろうか。人間同士の触れ合いや繋がりは、現実でも、仮想現実でも、時に美しく、時にむごい。この点において、本作は、人間の心理と現代の社会問題に、鋭くメスを入れた作品と言えるだろう。
(河野洋、2020年11月25日)


写真の女
89min / 2020 / Fiction
監督・脚本:串田壮史
出演:永井秀樹、大滝樹、猪股俊明、鯉沼トキ、菊池宇晃、勝倉けい子、土田諒
企画/製作/配給:ピラミッドフィルム
https://womanofthephoto.com


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