2018年9月7日号 Vol.333

内田忠男氏・講演会
「明治維新150年、日本と世界は?」
日本近代史、二つの変革(3)

内田忠男


ポピュリズムの席巻により
不安定になった世界


戦後の日本は、戦前と大きく変わった側面と、あまり変わらなかった側面がある。敗戦から2年足らずで施行された日本国憲法は、国民主権、基本的人権、そして平和国家を高らかに謳い上げ、日本は確実に生まれ変わった。日本ほどの大国で、70年以上もの間、外国に一発の弾丸も砲弾も撃っていない国は、世界史上でも極めて稀。

一方、敗戦後も変わらなかった側面とは、一言で言えば、役人支配の中央集権制だ。日本では何かにつけ「国民」という言葉を使うが、これは、御上(おかみ)意識から生まれたもので、上から目線が強過ぎる役人言葉であり、私は好きではない。欧米の民主主義先進国では「people(国民)」という言葉は滅多に使わない。「tax payer(納税者)」、「voters /electorate(有権者)」と、具体性のある言い方をする。役人や政治家は「public servant(公僕)」であるが、日本の役人にはその意識のカケラも感じられない。感じられないどころか、彼らは納税者の上に胡坐をかく特権階級だと大変な思い違いをしている。その役人に、このところ不祥事が相次いでいる。国民の財産である国有地を不当に安く払い下げ、その経緯を記録した公文書を書き換えていた「森友問題」。防衛省では、ある書類を「ない」とウソをついた南スーダンPKO。文科省ではバカ息子を医大に入れるために補助金を与えていた東京医大。納税者からすれば、税金で食わせている役人が、納税者をないがしろに勝手放題をしている。こうした状況に対する納税者・有権者たちの怒りが、日本でも次第に高まりつつある。

今の世界には、強い怒りの感情が渦巻いている。その表出が、2016年6月の英国のEU離脱であり、11月には自由・平等という理念を持たない米国大統領が出現した。2017年に入ると、フランスで2大政党に属さない、国会にも議席のない35歳の若き大統領が選出され、オランダやオーストリアの議会選挙でも既成政党が大幅に議席を減らし、オーストリアでは31歳の国民党党首が首班の座についた。さらに驚いたのはドイツの選挙だ。足並みの乱れが目立ってきたEUを、一人で支えている感のあったメルケル首相の与党が大幅に議席を減らし、組閣に半年近くもかかる事態となった。今年に入ってからも、イタリアで左右のポピュリスト政党が連立し、政治に素人の法学者が首相になった。スペインでも政権が交代した。冷戦終結後、目眩く(めくるめく)スピードで始まったグローバル化で強調された国際協調、多様性そして寛容の精神が、今、この地球上で音を立てて崩壊しつつある。その原動力は民衆の怒り。それも政治から、経済の好循環から取り残され、忘れられた人々の怒りなのだ。グローバリズムが必然的にもたらす冨の格差。多くの人々が欲求不満を募らせ、それが怒りへと昇華して行く。その怒りの矛先は、難民や移民に向けられている。その結果、既成の権力・秩序が全否定され、「壊し屋」とも言うべき人物に政治を預ける。人はこれを「ポピュリズム(populism)」という。

このポピュリズムの席巻で、今の世界は極めて不安定な状況になった。民主主義が最大多数の最大幸福を追求する以上、多くの人々に歓迎される政策や政治家が登場するのは当然だ。しかし、その一方で、そこには「衆愚政治」というひとつの大きな欠陥がある。これは大きな災いを招く。現在、民主主義政治はそういった方向へ傾いてはいないだろうか。例えば、トランプが大統領選に出馬・当選した頃には、様々な批判があった。ところが、彼が様々な発言をするうち、「また言ってるわ」と、それが「当たり前」のようになってしまっている。品性も知性もない大統領が、まごまごしていると2期目も務めるのではないか、という恐怖さえ覚える。衆愚政治…日本はそうなってはいけない。だが、日本の状況を見ていると、日本にも人々の「怒り」が起きるのではないかと感じられてならない。

経済の面では、格差を生み出す資本主義・市場経済への懐疑・不信が強まりつつある。世界史的には、このような状況にはデジャヴ、既視感がある。アメリカ発の世界大恐慌が起きた1930年代、既成秩序を排除する動きが顕在化し、ヒトラーやムッソリーニ、東条英機といった全体主義者の跋扈(ばっこ)を招き、遂には世界大戦へとつながった。資本主義を否定し、共産主義・社会主義を具現しようとするソ連という国家も出現。しかしこれは人々の理想とは程遠いものであることが、20世紀後半には明らかになった。今また、私たちは戦争への道を歩いているのか?

民主主義にせよ資本主義にせよ、代わるべき理念が、そう簡単に見つけられるものではない。結果として、最善ではないが、これに代わり得る理念はない、という中途半端な結論で終わってしまう。

しかし、本当にそれで良いのであろうか。民主主義も資本主義も、カビが生える十分な時間を経過している。しかも現在、インターネットが日常生活の隅々にまで浸透し、全ての人々が情報の発信源になり得る状況だ。有権者は「投票」という行動以外で、自分の意見を表明できるようになり、経済ではサプライチェーンが国境をまたいで複雑に交差し、密接に結びついている。お金の投資先も同様だ。

21世紀という時代は、つい最近までの20世紀とは全く違った構造、行動様式、思考構造の中で動いている。イデオロギーだけが、旧態依然で良いはずはない。

第16代アメリカ合衆国大統領に就任したエイブラハム・リンカーン。彼の就任演説で有名な一節を紹介したい。
「the better angels of our nature」
意訳するならば「私たちが生まれつき持っている最大の善意」とでも言おうか。これを持っていれば、我々は他人に優しくできる、つまり「愛他主義」を貫くことが、全体の幸福へと繋がっていくのではないだろうか。

幕末から明治維新、国家建設の先駆けとなった志士たちは、国の、そして他人の幸福と利益を考え、奉仕と犠牲を美徳とする紛れもない「愛他主義者」たちであった。今を生きる我々は、その精神を受け継ぎ、未来へと「進化」し続ける必要がある。

※講演会原稿より抜粋

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