2018年9月7日号 Vol.333

内田忠男氏・講演会
「明治維新150年、日本と世界は?」
日本近代史、二つの変革(2)

内田忠男


第二の大変革は
日本の敗戦


次の大変革は、日本の敗戦と共にやって来た。ここからは、私自身の体験談と言っても良い。敗戦から今日まで、自分の目で眺めてきた「生き証人」として記録する。

私は明治維新から71年後の1939年生まれ。そして第二の大変革となった敗戦は1945年8月15日。あれから、もう73年が経つ。明治維新から私が生まれるまでの時間以上の時が、敗戦から今日までに経過している。私にとって 今でも「明治維新」とは途方もない遠い昔の出来事。ならば、若伊人が敗戦について考える時、おそらく、私にとっての明治維新と同様、「途方もなく遠い昔」という感覚だろう。

敗戦の日は、私が6歳2ヵ月になったところでやって来た。神奈川県の相模湾に面した葉山で暮らしていた私は、家からすぐ近くの砂浜に出て、江ノ島越しに富士山を望むのが日課だった。

あの8月15日という日を、今も鮮明に覚えている。良く晴れた暑い日で、蝉の声が降り注いでいた。ところが、我が家のラジオは、朝から重苦しいアナウンスを繰返していた=本日正午から天皇陛下の重大なご放送があります=。当時の天皇と言えば現人神、一般の国民が直にお目にかかることなど考えられず、陛下の肉声を聞くなど、あり得ない。その天皇がラジオ放送で自らお話しになると言う。大変な異常事態であると、誰しもが思っていた。ところが正午が近づくにつれ、ラジオに雑音が混じるようになり、それがどんどん酷くなる。無条件降伏に反対する軍の勢力が、妨害電波を出していたのだと思う。それでも、雑音の中から途切れ途切れに聞こえてくる陛下の声で、大人たちはすぐに敗戦を知った。私自身の印象はと言えば、「随分と甲高い声を発せられる方だな」というものだった。

その夜から、空襲に備える灯火管制が解除され、我が家の茶の間いっぱいにに、電灯の明りが降り注いだ。文句なしの解放感だった。戦争末期の戦況は、幼子でしかなかった私にも絶望的にしか見えなかった。毎夜のように空襲警報が出て、私たちは自宅の庭に掘った防空壕に逃げ込む。葉山が空襲を受ける事はなく、外に出て空を見上げる事が多かったが、轟々たる響きの中を超大型爆撃機B29が何百機と北東方向に飛んで行く。暫くすると、その北東の空が真っ赤になるのが見えた…東京や横浜が大空襲を受けていたのだった。戦争最末期の半年余りの間、日本の都市という都市が、日本焦土作戦の名の下に殆ど丸焼けになり、最後は8月6日に広島へ、9日に長崎へ原子爆弾が投下された。公式統計に残されている空襲による死者数は60万弱だが、実数は100万人超とも言われる。しかもその大半は、ジュネーブ条約で守られるはずの非戦闘員の一般市民であった。先の大戦では、日本軍による残虐行為がしきりに叩かれ、隣国からは今も糾弾されているが、アメリカ軍も罪のない膨大な市民を殺戮した。だが、これが戦争の実態、それだけ残虐なものなのだ。それ故に私たち日本人は、「今更、アメリカに恨み言を言っても意味がない」と考えている。

敗戦が近づいた頃の日本人の暮らしは本当に酷いもので、現代を生きる人々には恐らく想像も出来ないだろう。食糧から燃料、日用品に至るまで、暮らしに欠かせないものは全て配給制だったが、日本の敗色が濃くなった頃から、配給が滞り始め、遂には何も配給されなくなった。逆に、金属製品は献納という名目で大方没収。ついに、「戦後」という時代が始まる。相変わらず食べ物も日用品も、配給はゼロに等しかったが、「戦争が終わった」という解放感は何ものにも代え難かった。用紙不足からタブロイド判表裏しかなかった新聞が、敗戦を境に手の平を返して論調を変えた。「本土決戦、一億玉砕!」と、挫けそうになる国民の戦意を煽っていた新聞が、何の衒(てら)いもなく「1億総懺悔の秋」「平和日本、民主日本の再建」を謳う。こうした変わり身の早さは、見事としか言いようがない。やがて占領軍が上陸したが、トラブルというトラブルは全くなかったといえよう。逆に、若い女性たちは米兵の腕にぶら下がり、子どもたちは米兵を囲んで食べ物をせがむ…そんな和やかな光景が、其処此処(そこここ)で繰り広げられ、占領軍との間で物理的な衝突が起きることはなかったように記憶している。ダグラス・マッカーサー元帥を総司令官とする連合国占領軍にとり、このような変わり身の早さは物怪(もっけ)の幸いだったに違いない。占領行政という任務を帯びた占領軍にしてみれば、軍部の言いなりだった中央官庁の高級官僚たち=元々頭も良い、政策の立案力もある=が180度反転、占領軍への服従に変身したため、「これは使い勝手が大層よろしい」と、大いに重宝された。国を挙げて戦争完遂に向かっていた求心力が、そのままそっくり「占領軍への忠誠」と「戦災復興」に変わり、フルスピードで回転し始めたのである。

子どもとは言え、その渦中にあった私も、この変わり身をさほど不思議に思わなかったのは、敗戦までの絶望的な鬱屈感が消え去った解放感の所為だったように思う。

一面の焼け野原となった東京、横浜など大都市には、バラックと呼ばれた焼けトタンやベニヤ板で急造したあばら屋が無数に建てられ、乗降客の多い鉄道駅の周辺には、飢えた胃袋の要求に応える食べものの屋台から、着るもの、履くもの、日用雑貨、何でも売っている闇市が雨後のタケノコのように出現した。

復興が軌道に乗り始めた1950年6月、朝鮮半島で戦争が始まった。北朝鮮軍が突如、越境南下し、ほんの数日のうちに韓国領土の3分の2以上を占領してしまったのだ。日本にいたアメリカ占領軍は、「朝鮮半島が共産化されれば、次は日本が狙われる」と、直ちに韓国救援の準備に入る。アメリカは、ソ連が中国代表権への不満から国連安保理を欠席していた隙をつき、「国連軍」(本格的な作戦行動を行った国連軍はこの時だけ)の編成を決議、国際社会があげて韓国を支援する形を作った。日本は、この戦争で兵站基地の役割を果たすことになり、休戦協定が結ばれるまでの約3年、解体を指示された筈の軍需産業が一部、息を吹き返したほか、鉄鋼、化学、機械、繊維、自動車産業などが戦争特需に湧き、日本経済の復興を加速させた。

朝鮮戦争中の1951年9月には、サンフランシスコで対日講和会議が開かれ、米英を柱とする西側諸国との間で平和条約(調印49ヵ国、批准46ヵ国)が締結。1952年4月28日に発効され、日本は独立と主権を回復した。

この時代をリードしたのが吉田茂。外交官出身で、昭和の初めに外務次官に就任した頃から英米派の有力者となり、駐英大使を務め、日独伊三国同盟には強硬に反対した。無論、対米戦争にも大反対で、開戦後は、維新の3勲・大久保利通の息子で義理の父親でもあった牧野伸顕らと図り、秘かに和平への道を探り続け、軍部とは激しく対立し続けたという本物の勇気を持った人物であった。終戦後、いち早く組閣された東久邇内閣、その後を継いだ幣原喜重郎内閣で外務大臣となり、占領軍との折衝の矢面に立つ。終戦の翌年1946年5月、明治憲法下、最後の大命降下(天皇の指名)で総理大臣となった。その後は1年半近い空白を挟み、新憲法下の総理となり、1954年12月まで2616日に渡って首相を務めた。現・安倍晋三総理がいつまでやるか判らぬが、現状で吉田茂は、佐藤栄作に次ぐ戦後2番目の長命政権であった。総理在任中は、「ワンマン」「頑固者」といった批判も浴びたが、頑固者故に、当時絶対とされた占領軍の指令にもしばしば反抗し、毅然として自らの信念を主張、それを押し通す場面さえあった。朝鮮戦争勃発後、マッカーサー元帥は日本に再軍備を勧告したが、吉田首相は敢然と拒否、7万5千の警察予備隊創設でお茶を濁した。敗戦後、我が国は33人が総理になったが、「一級品」と言えるのは精々5人…その中で吉田茂は、3本の指に入る名宰相であったと私は考えている。

ジャーナリストという職業柄、1972年就任の田中角栄氏以後の総理には、民主党のダメな3人も含めて全て1対1で会ってきた。人柄、理念、実行力など、総合力で印象に残るのは橋本龍太郎さん、小泉純一郎さんの2人のみ。橋本さんは、大変な勉強家であらゆる政策に通じていた。消費増税という政権に不利な政策も、あえて使命感で実行。その直後の参院選挙に負け総理を辞めたものの、サバサバしたものだった。小泉さんは、発想と政策実行のタイミングが、実に独特で絶妙だった。「自民党をぶっ壊す」という発言や、郵政民営化選挙など、小泉さんでなければ出来なかった。さて、話を戻そう。

1952年、平和条約発効後は、国際社会への早期復帰が、日本の最重要課題となった。まずは国連への加盟だが、平和条約を結ばなかったソ連の反対で、なかなか進まない。そこを何とか説得し、1956年10月、日ソ共同宣言に署名。同12月、国際連合に加盟(80番目)した。1959年、IOC(国際オリンピック委員会)の総会で、1964年の東京五輪開催が決定(現在は7年前だが当時は開催年の5年前だった)。1964年にはOECD(経済協力開発機構)に加盟(21番目)し、同時にIMF(国際通貨基金)8条国へ移行。日本は先進国の仲間入りを果たした。敗戦から19年後の10月に行われた「東京五輪」、 1970年の「大阪万博」、1972年の「札幌冬季五輪」などは、新しい日本の姿を世界へ発信する3大国家プロジェクトであった。私はこれら全てを間近に取材した。

1966年、人口1億人突破。1968年には、アメリカにつぐ世界第2の経済大国となり、以後2010年に中国に抜かれるまで、国際社会における日本のアイデンティティであった。

明治維新からの近代化の足取りも速かったが、戦災復興から高度経済成長に向かうスピードも大変なものであった。当時の日本人は、とにかく良く働いた。思うに、何か統一された目標を持った時の日本人の求心力、勤勉性は、類まれなものがある。私は長い間、外国でジャーナリストとして暮らしていたことから、日本の政治にしろ、日本企業にしろ「too little, too late」「決断が遅い、時間がかかり過ぎる」と聞いていたが、国全体の変化スピードは、どこにも負けないと確信している。

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