2018年6月15日号 Vol.327

JAA恒例の墓参会
クイーンズの日本人墓地で

JS


ニューヨーク日系人会(JAA)が5月28日(月)メモリアルデーに、クイーンズ区マウント・オリヴェット日本人墓地を訪れた。JAAがこの墓地を1912年に購入して以来、ずっと続いている恒例の墓参会だ。
JAA副会長の竹田勝男氏の司会で、仏教会のアール池田住職の読経と、日米合同教会の伊与田昭夫牧師によるサービスが行われ、その間に参加者全員が献花を行った。
在ニューヨーク総領事館からは阿部康次首席領事が参加し、先駆者への感謝の意を述べた。日系ライオンズクラブからは、相田道治会長とその会員が参加したほか、第2次大戦に米国兵として参戦したカズ・ヤマグチさん(MIS部隊)と、ベトナム戦争に参戦したスタンリー・カンザキさんの姿もあった。
例年通り、ニューヨーク日本人学校(小島昇校長)と、ニューヨーク育英学園(岡本徹校長)からは、教員、父母、児童ら約100人が参加した。
ニューヨーク日本人学校では、この墓参会は1978年以来の学校行事となっており、今年で40回目の参加。小島校長は、「今ここに参列している児童生徒たちが、将来世界平和に貢献し、日米の架け橋になることを期待している」と話した。
育英学園の岡本園長は、1900年初頭のニューヨークで日本人社会を築いた高峰譲吉氏や高見豊彦氏の偉業を称え、偉大な先人に敬意を表した。
墓参会の前日には、雨の中、JAAと日系ライオンズクラブのボランティアが墓地を掃除。育英学園の児童が作成した日米の国旗を飾った。多くの日系団体から花輪が供えられ、墓地を華やかに彩った。

ニューヨーク日系人会111年の歴史

高見豊彦博士が、「日本人墓地の購入と日本人相互の扶助」を呼びかけ、1907年(明治40年)「日本人共済会」を創設。1914年、高峰譲吉博士を会長に、高見博士も副会長の一人として「紐育日本人会」を設立し、「日本人共済会」を吸収合併。1941年の日米開戦で米国政府に解体・凍結されるまで活動した。
終戦直後「日本救援準備委員会」設立、1946年「日本救援紐育委員会」発足。敗戦下の日本の窮状を救うべく「故国同胞を金品を以て支援する」を目的に、粉ミルクや粉卵、綿布などの物資を、当時の価格で16万ドル相当分を5年間にわたって日本に送り続けた。日本の復興と共に、「祖国救援」から「当地在住日系人・日本人の福祉向上と相互扶助」へとその目的を変える。「ニューヨーク日系人会」と改名したのは1950年11月。戦争で凍結されていた「紐育日本人会」の活動を米政府が解除すると、その活動は「ニューヨーク日系人会」に引き継がれた。
1994年、西44丁目に移転。活動内容も、法律・健康無料相談から各種文化教室、奨学金制度など、守備範囲を拡大。2005年、高齢者問題協議会を発足し、日本人・日系人高齢者のニーズへの対応に備えている。2014年10月、現在の住所(西45丁目)移転。

高見豊彦博士(1875〜1945年)
ニューヨーク日系人社会の慈父


1875年4月4日熊本県に生まれる。「戸田塾」在塾中、禁を犯して出席していた英語塾で、新島襄の日本脱出と米国での苦学話に感動、自分もアメリカへ行く決心をする。渡米資金を得るため、家族に別れを告げ15歳で大阪へ。英語や航海術を勉強し、英国船モーガル号の船員として、1891年3月神戸を出航。
同年10月マンハッタン島イーストリバー側の埠頭に到着。学士稼ぎのため、ブルックリンの米海軍造船所で働きながら英語の勉強を続けた。コーネル大学医学部を次席で卒業。在学中、日本人男子の解剖に立ち会った際、番号だけで処理される現実を目の当たりにし、コロンビア大学学生会で在留邦人に相互扶助と親睦、日本人墓地の購入を説く。卒業後ブルックリンで開業。医療費を払えない人を診療し、地域での信頼と尊敬を集める。1907年日系人会の前身である日本人共済会を設立。1912年秋、念願の日本人墓地を購入した。1945年5月17日ブルックリンの自宅で逝去。(自叙伝「輝ける星」子息高見正彦編から)


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