Page 11 - Yomitime466
P. 11

[ 11 ] 3/29/2024
YOMITIME・WWW.YOMITIME.COM・info@yomitime.com・
  WT U CA
不眠不休でレポート 現在も続くテロ活動
WT C
30
1993 年に爆破された WTC の地下駐車場
Photo : 1993 World Trade Center bombing, Public Domain
86
98
11
96
C
93
91 89
05
WT
9 0
37
12
26
93
WT C
BF I
10
AP
 93 54
88
15
50 F WT PL 82 BI C O
96 98
17 39
10
18
南から避難してくる人々 が道一杯に広がり、とて も車が走れる状況ではな い。500メートル余り の距離を駆け足で支局に 向かった。  スタジオに座ると日本 時間の朝まで番組が続 き、短い休息を挟んで『モ ーニングショー』や昼の情 報番組、さらには夕方の ネットワーク・ニュースへと
幅に規制され閉鎖状態 となり、こうした孤立状 態が1週間続いた。
ッターバードの潜伏先を 急襲、オバマ大統領らが ホワイトハウスに生中継 された映像を見ている前 で殺害された。  アルカイダは、ロンド ンでの同時爆破事件( 年7月)はじめ、数々の テロ攻撃を仕掛けながら、 現在も活動を続けてい る。
Untitled,(Detail 95)
を極めた。港湾公社職 員5人と胎児を宿してい た女性秘書の計7人が 死亡、1000人を超 す負傷者を出した。
5千万ドルの巨費を投じ て丸1月以上かかり、南 棟は3月 日、北棟は4 月1日まで再開できなか った。公共駐車場の営業 再開までには、さらに数 年を要した。またテロリ ストらは、 などの 捜査で逮捕され、実行犯 4人には合わせて240 年の懲役刑が判決され た。  ここでアルカイダとい うテロ組織について述べ よう。  アルカイダは、19 79年に始まったソ連の アフガニスタン侵攻に抵 抗する武装組織として
加するようになった。 年2月にソ連軍がアフガ ンから撤退したためサウ ディに凱旋、超大国ソ連 を破った英雄として迎え られた。アフガン戦争中 は、米ソの冷戦を背景に ムジャヒディンを支援した アメリカの資金や援助物 資を受け取るなどしてい たが、イラクによるクウ
敢行、大使館員と民間 人合わせて224人を 殺害、5千人以上に負 傷を負わせた。さらに 2000年 月には、ア ラビア半島イエメンのア デン港に停泊していた米 海軍のミサイル駆逐艦コ ールを強力な爆薬を装 備した小型ボートで自爆 攻撃、左舷を破壊して 水兵 人を殺害、 人 を爆風で負傷させるなど、 執拗な反米テロ攻撃を続 けていた。  この間ビン・ラディン は、 年8月と 年2 月の2度にわたり、イス ラム法学に基づいて発令 する布告=ファトワを出 し、2つの聖なるモスク の地(であるサウディ)を 占領したアメリカへのジ ハード=聖戦を宣言、異
た。レバノンの破壊され たタワーを目にした私の 心に、我々も同じやり方 で迫害者を罰するべきと の考えが浮かんだ。アメ リカのタワーを破壊し、 我々が体験した一端を彼 らにも体験させることで、 彼らが我々の女性や子供 を殺すことを思い止まら せるべきだと考えた」と 述べた。 年のレバノン 侵略とはベイルートにあ ったパレステイナ解放機 構= 拠点を攻撃、 アラファト議長以下をチ ュニスに退去させた戦闘 を指している。2度にわ たる 攻撃の動機 が、こんな時期に芽生え ていたのか、とその執念 に驚かされた。  ビン・ラディンは連邦 捜査局 の最重 要指名手配犯となり、
 前回に続きSeptember つながり、寝る間もなく 11について語ろう。 翌日の『ニュースステーショ  事件が起きたのがテレ ン』に続いて行く。日本 ビ朝日の夜の大型報道 でもすべての情報・報道 番組『ニュースステーショ 番組が、この事件一色に ン』の放送中で、同番組 塗りつぶされた。そして、 は日付が変わる 時ま こんなスケジュールが5
の破壊を試みたのは、こ
れが初めてではなかった。
私が2度目のニューヨーク
任務につく直前の 年2 ったので、この停電で、ニ 月 日正午過ぎに、北 ューヨークのテレビ、ラジ 棟地下2階の公共駐車 オ局は1週間近くにわ 場でバンに積んだ強力な たり無線放送信号を失 爆弾を爆発させていたの い、ケーブル会社のマイ
で時間枠を拡大したが、
そのすぐ後は『報道特別
番組』として事件の報道
が続いた。
 それまで自宅から電
話でリポートしてきた私
には、スタジオからの顔
出し出演が必須となった
が、当初、テレビ朝日支
局からの衛星回線が不
通になっていた。急ぎ、ロ
ックフェラーセンターにあ
る 通信のスタジオ
を借りることにしたよう
だが、そのうちに支局の
回線が復旧した。 階
の自宅から降りると、玄
関前に迎えのリムジンが
待機している。しかし、 ッタン島に入る交通も大
国際ジャーナリスト 内田忠男  
日は続いた。出演番組の
合間をぬって、自宅に帰 である。その推定圧力は
クロ波を介するか、通信 衛星経由でしか放送がで きないことになった。  テロリストらは、濃厚 な煙がタワー全体を覆い、 人々をゆっくり殺して行 くと推測する一方、爆風 などで北棟が南棟に寄り かかるように倒壊し、2
ェート侵攻に端を発した 湾岸戦争の時点で徹底 した「反米」に転じる。   年8月にイラクがク
り、シャワーを浴び、服 を着替え、次の出演に備 えて内容の準備をする。 仮眠の時間はほとんどな かった。  若い特派員たちも、 不休で世界貿易センター = 現場での救出 活動や、混乱する道路 網・公共交通機関など に散って、最新の情報を 取材・報告した。連邦 航空局は全米の空港に 閉鎖を命じ、アメリカ本 土を飛ぶすべての商業航 空便がキャンセル、マンハ
1平方インチあたり 万 ポンドと推定された。メ ートル法換算では2・ 平方センチあたり680 トンとなる。爆速は秒速 4・5キロというとんで もない数字とされた。  駐車場4つのレベルに
年に結成された。指 導者は、サウディアラビ アの富豪に生まれたウサ マ・ビン・ラディン。戦
ェートを軍事占領、その
イラク軍を追い払うため、
アメリカが戦争準備に入
り、サウディアラビア領
内に米軍の駐留基地を作
った。ビン・ラディンは、
メッカとマディーナの2大
聖地を持つサウディが異
教徒の米軍を常駐させる
ことに強く反発した。 教徒アメリカ人をアラビ
◇  前回、2機目の
  年にはテロリスト の訓練基地を兼ねた拠 点を、勝手知ったアフガ ンに移動、 年8月に は、アフリカ西部のタン ザニアとケニアそれぞれ の首都で米大使館を同 時に爆破する自爆テロを
機が南棟に衝突した瞬 間に、私がイスラム過激 組織「アルカイダ」による テロ攻撃と直感したと書 いたが、それには十分な 根拠があった。  実は、彼らが
 (敬称略、つづく)
  には放送電波 を送出するアンテナがあ
メートルの巨大な穴が つのタワーがもろともに
開き、2つのタワーの 崩壊することを期待した
階まで爆風が吹き上がっ が、ビルの倒壊は免れ、 争の初期から、ソ連軍に て、全館停電、非常灯 8年半後の旅客機を使っ 抵抗するアラブ人による もエレベーターも止まり、 た〝ミサイル攻撃〟に持 イスラム義勇兵ムジャヒ 階段の吹抜けには不純物 ち越されることとなった。 ディンのゲリラ戦を支援 を混じえた濃い煙が充満  それでもトゥイン・タ する活動に従事、 年 して入館者の避難は困難 ワーの復旧には、2億  以降は自らも戦闘に参
年の湾岸戦争の翌年、密 かにスーダンに移ったビン・ ラディンは、副官のアイ マン・ザワヒリらと組織 を強化、対米テロへの準 備を進める。  その最初の攻撃が 年 の 駐車場の爆破 だった。
ア半島から駆逐すべきこ とを全世界のムスリムに 呼びかけた。「世界各地 でアメリカとその同盟国 の国民を、軍人・民間 人の区別なく殺害するこ とが、全ムスリムに課せ られた責務だ」と指令し たのである。  ビン・ラディンはさら に、9・ 同時テロ攻撃 への直接の関与を自ら認 めた2004年の声明で は、「1982年、アメ リカはイスラエルによる レバノン侵略を許し、自 らも第6艦隊を派遣し
年に及ぶ追跡の末、 2011年5月2日、 米軍特殊部隊がパキスタ ン北部、イスラマバード の北東 キロにあるアボ



   8   9   10   11   12