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[ 11 ] 09/29/2023
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  1959 年 1 月、ハバナに入ったカストロ(右)と 革命仲間のカミロ・シンフェゴス (Photo public domain)
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Untitled,(Detail 85)
び、街並み自体が 年 メリカの植民地となり、 企業ばかりかマフィアと て農業の集団化を推進 係のスタッフに会いたいと
国際ジャーナリスト 内田 忠男
 1990年代に2度、 共産党機関紙グランマを と当方の職業にも関心を っかりしている。その壮 時のキューバ憲法にはアメ
の女性が現れた。単刀 直入にフィデルとの単独 会見を望んでいると告げ ると、さして驚いた風も なく、「彼はスペイン語 を話す人としか会いませ
キューバのハバナを訪れた。 訪ねて交渉してみてはど 寄せる。しかし、こちら 観に加えて、街路を走る リカによる内政干渉権 1度目は 年の8月末、 うか、と提案され、「こい が日本語で答えると理解 自動車がすべて 年代ア が明記され、キューバ島 2度目は 年の3月だっ つが力になれるとは思わ できない。英語にすると メリカの車なのだ。スチ の東端のグアンタナモ湾
 カストロ自身は対米断
絶を志向したわけではな
かったが、アメリカが外
交関係を断ち、
が中心となって亡命キュー
バ人による反革命軍を送
り込む「ピッグス湾事件」 んよ。通訳を介した会 などを起こすに及んで、 見は可能性ゼロ」とニベ 冷戦下でアメリカと対立 もなく言い放って消えて していたソ連に接近、や しまった。「とりつくシマ がて「核戦争寸前」とも言 もない」とはまさにこれ われたキューバ・ミサイル だなと諦めるしかなかった。 危機へとつながって行く。  2度目の旅では国営テ  カストロについては、 レビ局に伝手を見つけて 単独会見が実現した時 仲介を頼んだのだが「、通  翌 年、130人の のために、旅行出発前 訳付きはダメ」の口上は 仲間と武装蜂起したが の数週間にニューヨークの 同じ。逆に、「ウチの番
たと記憶する。
 当時はむろん、キューバ
とアメリカは国交断絶状
態で、アメリカから直に 記者の名前と電話番号
キューバに行くことはでき を教えてくれた。
ない。フロリダから確か  何事も試して見なくて
ユナイテッド航空がチャー は実現しない。無謀・無 いことを納得させて入国 ター便の名目で飛ばして 計画と言えばその通りで、 許可のスタンプを押して
いたが、これはアメリカ これを唯一の頼みにする 在住キューバ人の里帰り用 ことにしたが、ヴィザの で、一般旅行者は利用で 申請は「観光」目的とし きなかった。 た。  そこでまず、メキシコ・  何と言っても、初めて シティに飛び、そこでヴィ 訪れた時の印象が強烈だ ザの発給を受けてハバナ った。 入りするルートを選んだ。  メキシコ航空で降り立
と不思議に思いながらも、 りを拒否している)。 年の革命時点で時間  とくに経済面では、独 が止まってしまったように 立直後からアメリカ資本 感じられ、第一印象は間 が多数進出して製糖、タ ォード。車内が大きいので、 違いなく「タイムスリップ」 バコ、果実から電力に至 ゆったり座れる。都心ま だった。 る資源産業と金融を支
「夏休み」をとっての単身 ったハバナの空港は、う の旅だったが、私にはあ ら寂れた地方空港とい る下心があった。それが う感じだった。ジェットウ 途方もない故に、同行者 エイなどはむろんない。 を連れて行くことも、旅 タラップを降りた少し先 の本当の目的を雇用者で に入国管理の小さな建 あるテレビ朝日にも明か 物があって、到着客は歩 せなかった。 いてそこに入る。「Buenos  キューバ革命を実践し、 dias」かろうじて知って 以後独裁者として君臨し いたスペイン語で「おは
るアルゼンチン出身の革 1909年創業という 命家チェ・ゲバラらとセ 格式あるホテルで、 年 ールボート「グランマ号」 代に改装して 年に再開 でキューバ南西部グランマ 業したそうだが、室内 州に上陸したが、ここで 設備や備品など、西側 も仲間の大半を戦闘で失 諸国の一流ホテルに泊ま い、山岳地帯でのゲリラ り慣れた身には必ずしも 戦に従事することとなる。 満足の行くものではなか
 2度の旅で不思議に 思ったのは対米関係だっ た。公式の外交関係は ないのに、新市街の海岸 近くには7階建ての「利 益代表部」という大きな 建物があり、アメリカへ の渡航を願うキューバ人 たちの列ができていた。 2015年7月、オバマ 政権下で国交を回復し た後は、そのまま大使館 になったという。グアン タナモの海軍基地は依然 健在。アフガニスタンや イラクで拘束したテロリ ストの収容所ともなり、 拷問などが問題になった。
ていたフィデル・カストロ
との単独会見を模索した
のである。手がかり・足
がかりがあってのことでは
ない。当時、取材を通じ
て知り合ったニューズウイ
ークのシニア・エディター、
ジョナサン・オルターに相 か?」と聞かれビックリし 談したところ、キューバ た。「ジャーナリストね」
 2年余にわたる政府 軍との戦闘を経て、 年 1月1日、ついにハバナ に入城、バティスタを国 外亡命に追い込んで革命 を達成した。カストロは 首相となり、まず手をつ けたのが製糖業などのア メリカ資本に握られてい
った。到着翌日、ジョナ サン・オルターに教えら れた電話番号にかけてみ たが目当ての人物につな がらず要領を得ない。新 聞社を直接訪ねることに した。社屋は新旧市街を つなぐ革命広場に面して いた。
ないが、突破口にはなる かもしれない。彼は英語 ができるから」と、ある
よう」を言ったが、窓口 の職員は無表情。早口 のスペイン語でまくした てられ、慌てて「Sorry, I
can't speak Spanish」― ―今度は日本語で「観光
2度のキューバ、ハバナ訪問
で、ハバナの何を見ます
もらった。
 タクシーは 年代のフ
以来、世界遺産となって 1902年に独立を達 いる。ホコリに汚れて美 成したが、事実上はアメ しくはないが、駆体はし リカの保護国だった。当
も手を組んで腐敗と弾圧 の独裁政治を行なった。  こうした状況に不満を 募らせたのがフィデル・ カストロだった。  スペインのガリシア地 方から移民して農場を 経営していた裕福な家に 生まれ、ハバナ大学で法 律を学んだ頃から政治 活動に参加。卒業して 弁護士となり、貧困者 の救済に挺身するうち、 バティスタのクーデターに 遭遇、憲法裁判所にバテ ィスタを告発したが退け られた。
し、砂糖より食料になる 来意を告げると、やがて 作物の生産を奨励した。 エディターだという中年
なんとか通じた。カタコ ュードベイカーやパッカー はアメリカが永久租借し トの日本語で聞かれ、そ ドなど、アメリカではほ て海軍基地が建設された れに英語で応答する珍妙 とんど見ることもなくな (租借料は金貨2千枚 な問答になったが、長居 った車も当たり前のよう とされているが、キュー は無用と、帰りの航空券 に走っている。「どうやっ バ革命後は最初の1年を を見せ、観光に他意がな て整備しているのだろう」 除き、キューバ側が受取
で キロと言われた通り、  ご存知の方が多いと思 配した。 あっという間に市内に入 うが、キューバという国  さらに 年には軍人出 る。旧市街はスペイン植 は1898年の米西戦 身のフルヘンシオ・バティ 民地時代から定着したコ 争でフィリピン、グアム、 スタがクーデターで政権 ロニアル様式の建物が並 プエルトリコとともにア を握り、アメリカ政府・
失敗して投獄され、 年 公立図書館などで関連 組で日本の話をしてよ」 に恩赦で釈放されるとメ 資料を読みあさった。 と頼まれたが、今度は私 キシコに亡命。 年 月  宿泊したのは、旧市 が「通訳付きはダメ」と には後に革命の同志とな 街にあるパレスホテル。 断った。
カストロとの単独会見模索 た農地の徹底改革だった。  英語の通じない受付で 土地と産業を国有化し 苦戦しながらも国際関
(一部敬称略、つづく)

































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