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在ペルー日本大使公邸占拠事件 突入劇は奇蹟の成功
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ペルー軍兵士に救出される人質(CC BY-SA 4.0)
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銃撃戦の末に占拠したと いうのだ。 公邸ではこの夜、 日 の天皇誕生日に先駆け て、祝賀レセプションが 開かれ、当時のアルベル ト・フジモリ大統領の母 ムツエさんはじめ、ペル ー政府の要人や国軍幹 部、各国外交団とペルー 在住の邦人・日系人ら 多数が招かれていた。そ の宴たけなわの現地時間 午後8時過ぎ、黒い服 装に赤い覆面をし自動小 銃と手榴弾で武装した
い」などを要求した。 駐ペルー赤十字国際委 員会代表のミシェル・ミニ グ氏が現場に急行して交 渉にあたり、ムツエさん を含む高齢者と子どもら 200人以上の人質が同 夜遅くに解放され、翌日 にはドイツ、カナダ、ギ リシャ大使ら9人、 日 に韓国、エジプト、ブラ ジル大使ら 人、 日に も各国大使ら225人を
争税名目の企業恐喝等に
よって得ていた。ペルー当
局が徹底した取締りを行
ったことで構成員数は激
減し、事件発生当時は百
人を下回るとみられてい
た」としている。
ペルーには他に「センデ
ロ・ルミノソ」という左翼
組織があり、知名度はこ
ちらの方が高かった。再
び警察庁資料によれば、 グ代表も足繁く公邸に入
年が明けて1月7日 午後、テレビ朝日の系列 局・広島ホームテレビの
や の取材陣と意 見交換すると、彼らは「ペ ルー政府は強行突入で早 期解決したいのだが、日 本政府が人命重視で消 極的だ」と話し、「私た ちも早い方がいい。日本 政府の決断の遅さはいつ ものことだね」と皮肉を 言った。 現地では膠着状態が続 き、私は2月5日に見切 りをつけてニューヨークに 帰った。 そして事件発生から 127日後の4月 日、 ペルー軍と警察の特殊部 隊が地下トンネルを使っ
Untitled,(Detail 83)
の誘拐を中心に活動し、 ねて毎日出入りするよう
外国企業のペルーからの になった。
排除、キューバ型の社会 公邸周辺には日本のメ
主義政権樹立などを主 ディア各社が分厚い取材
張してきた。日本関連で 陣を配置したが、大晦日
は、 年7月の日本車等 の 日にはMRTA側か ニューヨーク支局に駐在し 付けない。 記者の事件 販売店に対する連続爆弾 ら共同通信に「進入可」 ており、テレビ朝日取材 後、警備は数倍強化され
国際ジャーナリスト 内田 忠男 1996年も終わりに 「逮捕拘留されているM MRTAという組織に
近づいた 月 日夜、寝 耳に水のような事件が降
RTA構成員全員(セル ついて、日本の警察庁資 パの妻も含まれていた)の 料によると「、組織規模は、 釈放」と「安全な国外脱 最盛期で千〜2千人、活 出のため人質を同行」「、経 動資金は、麻薬業者から 済政策の全面的見直し」、 の資金、誘拐、強盗、戦
ってわいた。
南米ペルーの首都リマ
にある日本大使公邸にテ
ロリストの集団が侵入、 「戦争税(身代金)の支払
事件や日系農場主誘拐 のサインが出た。ミニグ 事件、 年 月に日系人 代表が事実上の仲介をし 経営電気店前の自動車 て、各社1人が4班 人
陣の一員としてリマに派 たという。 記者の邸内 遣されていた。4日後に 進入の経緯を聞くと、公 釈放されたが、 記者が 邸正門前の民家を指して 収録したビデオテープは 「この家から数日監視を 押収された。 続け、日に数分だけ正門 日本のメディアには、 の警備が緩むのを見つけ 各社横並びで取材してい た。その時刻に、通訳と る場合、1社だけが特別 正門前に行き、来意を書 なことをすると「抜け駆け」 いた大判の画用紙を掲げ として厳しく排除する習 て交渉し、中から許しが 慣がある。この時も、テ 出た」という。 レビ朝日が激越な非難の 「ジャーナリストという 対象になり、 記者は間 のは、そういうヌメヌメ も無くニューヨークに帰さ した功名心を常に隠し持
人の男たちが、空き家 だった公邸隣の民家の塀 を爆破して乱入、警備の 警察官らと銃撃戦を交 えた末、レセプション主 催者の青木盛久大使は じめ600人余りを人 質に取った。
侵入したのは、 年代 初めからマルクス・レーニ ン主義革命を掲げて活動 してきたMRTA=トゥ パク・アマル革命運動と いう集団で、リーダーは ネストル・セルパ・カル トリーニという 歳の男。 った。
ンスで活動した。 年4 月の大阪市議選では大阪 維新の会から天王寺区の 2人目の座を狙ったが落 選した。 リマでの私は、日課の ように現場を訪ねたが、 公邸内からはリーダーの セルパらしき人物がメガ ホンで「我々はテロリスト
人のうち銃撃戦の巻き添 えでカルロス・ジュスティ 最高裁判事が死亡した 他は 人が無事だった。 攻撃隊からは2人の殉 職者を出したが、MR TA全員を射殺して長 期にわたった占拠に終止 符を打った。 日本政府が逡巡した 突入劇は奇跡と言える 成功だった。
一挙に解放、 日にはウ ルグアイ、 日にはグア テマラ、 日にはドミニ カ共和国とマレーシアの 各大使が解放されるなど して、最終的には、ペル ー政府要人と軍人、日本 大使館員と日本企業の駐 在幹部 人が公邸に残さ れた。 テレビ朝日はニューヨー クの 支局長(報道番組 のディレクター一筋、のち 新潟テレビ 社長)と特 派員2人、カメラマンら を現地に急派したが、私 は国際情勢全般を見る 任務からニューヨークに残
「MRTAはこれまで、 り、クリスマスごろから 欧米諸国公館、ペルー政 はカトリックの指導者シ 府機関、軍・警察施設等 ブリアーニ大司教が食料 に対する攻撃や営利目的 や医薬品の差し入れも兼
記者が、スペイン語通 訳とともに公邸玄関に近 づき、簡単なやり取りの
れた。
テレビ朝日は 日に本 社で記者会見を開き、伊 藤邦男社長が「ご迷惑を かけたことをお詫びする」 と陳謝し、その直後、外 務大臣から取材テープの 返還を受けた。
1月 日、私もリマに 入る。ニューヨークから直 行便で8時間弱のフライ トだった。到着直後にフ ジモリ大統領が日本報道 陣と会見、「MRTA服 役囚を釈放するつもりは ない。国外退去については、 交渉の議題にはなり得る」 との立場を語り、ペルー 官憲の強行突入については
っているものだ」と言うと、 彼も大きく頷いていた。 横並びで同じことしか書 かない、伝えない日本メ ディアの建前は、役人と 同じ発想でしかない。ち
なみに 記者のその後だ が、帰国して間もなく広 島の局を辞め、フリーラ て公邸に突入、人質
爆破事件などを起こした」 としている。
年に就任して諸改革 を進めていたフジモリ大 統領は、MRTAの要求 をすべて拒否する一方「、人 質に危害を加えれば実力 行使を辞さない」と断固 たる姿勢を示した。交渉 にはパレルモ教育相があ たり、国際赤十字のミニ
前後ずつ公邸正門から敷 地内に入り、邸内に入れ たのは第4班の共同通信 が最初で、それを機に各 社1人ずつ入館。MRT Aの監視下で青木大使と ペルーのトゥデラ外相、シ ウラ国会議員、小林三井 物産支店長の4人にイン タビューした。
あと邸内に入り、約2時 現地にいる 支局長に案 間後に退出したところを 内されて公邸周辺を見て ペルー国家警察に連行さ 回ったが、装甲車が2台 れるという「事件」が起き 配備され、ペルー警察が た。 記者はテレビ朝日 厳重に警備していて寄り
察側も大音量の音楽など を邸内に流す。「何のつも りですかね」という若い 記者に、私は「突入に備 えたトンネルでも掘ってい るのだろう」と答えたが、 後にその通りだったことが 判明する。 フジモリ大統領との単 独会見を模索したが巧 く行かなかった。
「選択肢ではあるが、コ ではない」などと叫ぶほか、 メントはできない」とした。 MRTAを讃える音楽が 翌日、発生直後から 流されたりしていた。警
(つづく)