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2期目に挑むクリントン 権力への執着、浮き彫りに
コネチカット州ハートフォードで行われた 1996 年度・第一回大統領討論会で ボブ・ドール(左)とビル・クリントン
(Clinton Presidential Library, Public domain photo, 6 October 1996)
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Untitled,(Detail 82)
年1月に始まった新 労機会調停法」と呼ばれ 議会では、多数を握った る法律で、要約すれば、 共和党がさらなる攻勢 個人責任を強調すること に出た。均衡財政を義 で、福祉給付の受給対
上院多数党の院内総務、 上院に転じて連続5回
開かれた共和党全国大 会では、党組織のボスた ちに引きずられた消極的 支持の積み重ねがドール 指名をもたらした。 本番の選挙戦は 歳の クリントンに 歳のドー ル......9月 日に野茂 英雄投手が最初の無安 打無得点試合を達成し た翌日、ドールは演説の 中で取り上げたが、野 茂の所属球団を「ブルッ クリン・ドジャース」と発 言。ドジャースは 年も 前にロサンゼルスに移転 していたのだから、「耄碌」 ぶりが話題になった。政 策面では、前述したクリ ントンの「変身」で、財 政均衡の逆提案を共和 党が呑んだことで、以後、 財政均衡や福祉国家の 効率化という共和党のテ ーマをクリントンが乗っ 取った形になった。 結果は、クリントンの 計略が見事図にあたって 楽勝――得票数ではクリ ントンの ・2%に対し ドールは ・7%、獲得 選挙人の数も379対 159だった。 クリントンには確固 とした経綸哲学がなく、 融通無碍、大統領とい う権力の座への執着だけ が浮き彫りになった。知 性に差はあるが、後のド ナルド・トランプに通ず るところも多かった。
国際ジャーナリスト 内田 忠男
1996年は私の評 選挙に向け、共和党は 失点を重ねた。無党派 務付ける憲法修正案や、 象者を絞り込み、労働
ボブ・ドール、保守派コ ラムニスト、パット・ブ キャナン、新聞雑誌の版 元経営者、スティーブ・ フォーブズ、カリフォルニ ア州知事、ピート・ウイ ルソン......総勢 人に及 んだ。 この中で真っ先に出馬 を表明したのがドールだ った。「党首」という役職 のないアメリカの政党で
当選......長い政治歴はあ ったが、それが大統領に 相応しいかどうかは、現 在のバイデン大統領を見
価が低く好みでもなかっ 保守派の闘将とされた や民主党支持の有権者 大統領の項目別拒否権 たビル・クリントンが2 ニュート・ギングリッチ の間にも「特に理由はな を可能にする法案を相次 期目に挑む大統領選挙 院内幹事が中心になり、 いがクリントンは嫌いだ」 いで通過させたほか、予
や家庭生活に伝統的な 価値観を持ち込もうと いう、共和党年来の主 張そのものである。例え ば、未成年の未婚の母な どに持続的に給付されて いた「要保護児童家庭扶 助」という制度から、「生 活困窮家庭への一時的扶 助」に絞り込まれた。「大 きな政府」の民主党の社 会福祉から、「小さな政 府」を主張してやまない 共和党のそれに切り替わ
れば明らかだ。
歳の高齢を考えれ ば、「これが最後」の思い もあったであろう。一種 悲壮感さえ漂わせて指名 争いに挑んだが、その割 には盛り上がらない。予 備選挙出だしのアイオワ 州こそ辛うじて1位にな
の年であった。 「Contract with America クリントンは常に自ら =アメリカとの契約」を
と公言する声が広がった。 算をめぐる攻防から暫 中間選挙は、共和党 定予算が間に合わず、 が圧勝する。 年 月と 月の2度にわ 民主党の議席を上院 たり連邦政府が一時閉鎖 で8、下院でも 奪い、 に追い込まれた。クリン 選挙後の勢力分野は トンは念願の医療保険改 上院で 対 、下院で 革などは断念して、民 230対204(無所属 主党として前例のない均 1)と、両院で過半数を 衡財政案を逆提案して 獲得した。「中間選挙は 共和党に擦り寄り、共 政権党に不利」とは言わ 和党が主張する社会保 れるが、下院で共和党が 障改革案について下院議 多数党になったのが 年 長となったギングリッチと ぶり、上院でも 年ぶ 長時間の交渉の末、法案 りだったと言えば、 年 の署名に応じることとな の結果がいかに特別なも った。 のだったか、ご理解頂け これは 年8月に成
の存在感を際立たせるこ 正面に打ち出した。筋 とに腐心した大統領だっ 書きは保守派のシンクタ たから、人気も高かった ンク「ヘリテッジ財団」が と見られがちだが、決し 書いた。 てそうではなかった。 選挙後の新議会開会 年1月の就任から 年 後100日以内に包括
「上院院内総務」は、事
実上の党のリーダーであ
る。当時の共和党は「リ
パブリカン・マシーン」と
言われたほど、全米的に
強固な組織を持っていた
が、リーダーともいうべ
き人物が「出る」と言わ
れたのでは粗略な扱いは
できない。多くの上下両
院議員、州知事、大都
市の市長ら、いわゆる党
の「有力者」たちが早い
時期からドール支持の立
場を鮮明にした。
ドールは、 年大統領
選で当時現職のジェラル
ド・フォードから副大統
領候補に指名され、民
主党のカーター=モンデ
ール・コンビに敗れたほか、 ブズが「大統領の座をカ
月の中間選挙に至る期 法案 本を可決させると 間は特に低く、「1期だ の「契約」で、そこには
ったが、続くニューハンプ シャー州ではブキャナンに 先を越され、アリゾナ 州ではフォーブズの後塵 を拝した。デラウエア州 もフォーブズ、アラスカ、 ルイジアナ州はブキャナ ンが勝利、3月 日のス ーパーテューズデイの出口 調査では、一般有権者の 半数近くが「別の誰かが 指名レースに参入して欲 しい」と答えていた。 この危機的状況を打 開できたのは、対抗馬 に浮上したブキャナンが 極端な保守主義・孤立 主義・保護貿易主義を 訴え、億万長者のフォー
けの大統領」との予測が 広がっていた。 大統領就任直後から、 クリントンはアーカンソ ー州知事時代の土地転 がしの資金疑惑や州の職 員だった女性との性スキ
財政赤字を削減するた めの財政責任法、防犯 対策を強化する街区復 活法、未成年母親への福 祉給付打ち切りなどを 定めた個人責任法、家 族の役割を強化する家族 強化法、中産階級への減 税を含むアメリカン・ド リーム再建法、米軍を国 連の指揮権から外す国 防再建法......などが含 まれていた。 クリントンは、こうし た共和党の攻勢に強気で 対応したが、 年に入る と連邦議会下院で共和 党の強硬な議事妨害に遭 い、大統領選で公約した 国民皆保険に向けた医 療保険の改革法はじめ、 政治資金規制法、ロビイ ング規制法などクリント ン色を濃厚に打ち出した 法案が軒並み廃案になる
ったのであった。 共和党は、こうした「上 げ潮」の中で 年の大統 領選を迎えたのである。 現職クリントンを1期 だけで潰そうとする候補 が次々名乗りをあげた。
ャンダルなどが暴露され たことで、大統領として の資質や信頼性に強い疑 念を抱かせ、支持率が 不支持を下回る形で低 迷していたが、「新民主 党哲学」なるものを大仰 にぶち上げ、増税や攻 撃用ライフル銃取得の規 制を強化し、ホモセクシ ュアルの軍隊への受け入 れを解禁するなど、直 前の共和党政権で主流 を占めた保守派の牙城に 大胆な攻撃を仕掛けた。 当然、共和党の猛反撃 を受ける。 就任後初の 年中間
るだろう。
立をみた「個人責任と就
、 年の選挙では共和 ネで買う」と思わせる戦 党内の指名を争い、レー いに出て、それぞれ党 ガン、ブッシュ(父)に敗 内主流の支持を得られ 退した経歴があった。カ なかったこと、「このまま ンサス州で政界デビュー では党が分裂する」と危 したのが戦後間もない 惧した党の有力者たち 年で、 年に連邦下院 が援護射撃をしてくれ 議員に初当選、4期8 たことだった。 年務めた後、 年から 8月にサンディエゴで
(敬称略、つづく)